手を振り返した少年が背中のカバンを揺らしながら場を去ったところで、壇上の男の人がマイクの電源を入れる音がした。
「時間になりました。皆様、おはようございます」
男は少し早口で、わずかななまりのある話し方をする。挨拶を返す会衆の声が辺りの空気を明るくする。壁に掛かった時計は、朝の七時を指したところだ。細身で白髪の男性は本をめくり、人々に語り掛けている。
彼の声が持つ独特の響きに包まれながら、私は手元のチラシを握り締める。
(……そうか。そうだよな。あの子はただ出立の挨拶をしただけじゃないか)
少年に咎め立てられるようなことは何もない。皆に聞こえるはっきりとした声で出立の挨拶をし、この場を去ったのであるから。
少年を見送った大人たち。時間になるまで待機していた壇上の男性。場にいる人々の挙動に不自然なところは全然ない。彼がもし会の最中に声を上げたら、後で注意されるくらいのことはあると思う。でも、殴打されるようなことはないだろう。私はそんなことを考えていた。
語り続ける男性を聞きながら、天井のステンドグラスを、どれくらいの間見上げていたろう。周囲のざわめきが急に大きくなった。
「涼、帰ろう」
「え?」
顔を上げると、永ちゃんが立ち上がっている。周りを見回すと、多くの人が帰り支度をしていた。知人と簡単な会話をしている人もいれば、これから仕事へ行くか、カバンを抱えて出て行く人もあった。
細身の男性は講壇から降りて、人々とにこやかに談笑している。冗談か何か言ったのだろう。会衆の哄笑 (こうしょう) する声が壁や天井に反響して騒がしい。
ざわめきを聞きながら、私はなかなか立ち上がれなかった。
「……そうだな。ちょっと一服したいから、付き合ってくれ」
永ちゃんにそう言われて、まだすぐには帰らないのだと分かると、私は自身の体が柔らかくほぐれてゆくような感覚をもった。そのことが永ちゃんにも伝わってしまったらしい。
次回更新は4月29日(火)、22時の予定です。
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