思わず立ち止まると、背後から一陣の冷たい風が吹き抜けていった。人気のない通りの向こうに、歳月を感じさせるコンクリート壁が見える。その壁の一隅に、白い下地に緑の文字で「こらーる岡山診療所」と記した看板が掛かっている。
その看板に引き寄せられるようにして、私は再び歩き出した。
正面の門を入ると、先生とその奥さんが大切に手入れしてきた樹木の緑が目に眩しい。
その昔、先生の知人がここで暮らしていたとか、先生たちの住まいなのだとか、その人徳から、篤志による格安の賃料で借りられているのだとか、通所する患者たちの間でいろいろと噂話が交わされるような、しっかりした造りの家屋だ。
すりガラスのはまった入口の引戸や、玄関の上方に取り付けてある明かり取りの欄間は、渋みのあるあめ色に変色している。程よい幅をしたゆとりある間口には、結婚式や法事も家で行なっていた時代を感じさせる。
誰かやってきた患者さんが騒いでいるのか、大きな笑い声が聞こえてきた。
ふと見れば、ここで何度か会っているはっさんが、玄関前に置かれた木製のベンチに腰掛けてボンヤリ空を眺めている。
「こんにちは、はっさん」
声を掛けたが返事はしない。疲れ切った表情の彼をそのままにして、そっと玄関の方へ歩みを進めた。
よくあることだ。ここへ来る人は、誰も彼も自分のことだけで手一杯である。
古民家の入口を改造した玄関に、たくさんの靴が並んでいる。かたわらに、心療内科や精神科での治療行為、それらに関連した療養の案内が置かれた棚がある。
笑い声を上げていたらしい人が今は嘘のように黙って、生真面目な顔で書を読みふけっている。
古民家の母屋をそのまま活用しているため、炊事場にも直通だ。そちらでは、茶の入った湯呑みを手にした人たちが、三三五五、椅子に腰掛けて、菓子を食べながら語らっている。
どの人も、待合で診察の順番を待っている患者というより、旧い友人の家に遊びに来ているような打ち解けた様子で過ごしている。
次回更新は4月19日(土)、22時の予定です。
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