第二章 これが老いなのか、誰もが迎える不確かな世界
時代が停まったのね
「あなた、もっと粋なものを着なさいよ」
イタリアさんの声だ(イタリアさんは食べ物にはうるさいが着るものには全く無頓着な人だ)。その声に私がその方を見るとケアマネの谷野さんだ。
「あら、そう、今日はこれしかなかったので、でも今度は粋なものを着てくるわ」
ケアマネはホームの中でただひとり制服を着てない。私服である。しかも彼女が着ているものは今どきの流行のもの。裾が広がっていて羽織る感じのものが多い。
ホーム一のおシャレな綾野さんは彼女のファッションをほめている。私はおシャレにも疎く、あまり関心を持っていないが確かに若い人たちの着るものは変わってきている。
娘さんと一緒に軽井沢や鎌倉などに出掛ける綾野さんだから、私はファッションに関しては綾野さんの言うことに信頼をおいている。彼女に言わせてもケアマネのファッションは新しいシャレたものだと言っている。
このことを一番若いスタッフが聞いていて「みなさんは時代が停まっているのね」「時代が停まっている」確かにその通りだと私は思わざるを得なかった。ある時から時代が停まって新しい情報が全く入っていないのだから。これがこのホームの入居者たちだ。
私にしても出かけるのは駅前のスーパーと病院に限られている。私が買物に行く時間帯は近所のおばさんや年寄りばかりで若い人の姿は見ない。
病院も慶応病院に通院していた時はそれなりに流行りのファッションの人も見かけたが今私が歩いて通院している松沢病院は年寄りばかりで付き添ってくる家族も東京も郊外なのでそれにふさわしい人たちである。
ところで私は?と自分を見てみると自分では若づくりと気取っていたが、それも時代はある時から停まっていて、ン十年前になる。若い時から機能的なものを選んできた。
スーツを着ていれば間違いない。それもあれこれ考えないで済むという根性なのだ。ただ言わせてもらえば背が高く、細身で背筋が伸びていたためにスーツは似合っていた。
このホームに入ってからはともかく下は白と決めている。白だと上に着るものは何色でも合うし、柄物でもチグハグにはならない。コーディネイトを考える必要がないというだけの理由である。
だから若づくりと自称していても、それはン十年前の時代に停まっていることなのだ。スタッフも入居者を見るところはちゃんと見ているのだ。
ファッション以上に私が驚いた、というより恐れを感じて臆病になったのはすさまじい街の変化である。
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