それ以降この手紙を、お守りとして大事に私のバッグに入れていた。初めて親元を離れ、これからへの期待と都会暮らしの不安とが入り交じった毎日だった。

私を「しっかり者」と評価し、がんばれよと応援してくれている父親をありがたいと思った。期待に応えようと誓った。そんな親を悲しませるような現実が、東京には待ち構えていたのだが。

ラブレター

二十二歳、東京で小学校の教員になった。担任ではなく家庭科を教える専科の先生だった。教員免許は高校と中学のもので、小学校で教えるのは教育実習も含めて初めてだった。

赴任先を知らされた時、「あ、小学校の先生になるんか」と戸惑った。不慣れな日々であった。前任者は定年まで勤めて辞めた、厳しいと評判のベテラン先生。次にまだ若い先生に代わり、子どもたちもどう接したらいいのか戸惑っているようだった。

私は授業中だけでなく、休み時間には子どもたちの遊びの輪に入ったりしていたので、次第に「お姉さん先生」として受け入れられるようになっていった。そんな日々を送るうち、同僚の男性教員と接点ができた。夏休み中のプール指導で一緒になり、その後お茶に誘われた。

それをきっかけに話すようになった。当時友だちもいなかったし、同僚にはあまり若い教員はおらず、気軽におしゃべりする相手もいなかった。

勤めが終わった後、学校がある駅から一つ先の駅で待ち合わせをして、おしゃべりしたり夕食を共にするようになっていった。

父親や担任の先生しか男性を知らなかった私にとって、「大人の男性」は魅力的であり、人間性にも惹かれていった。何でもできるし、何でも知っている人だった。

ある日、車の中で「オレのことどう思っている?」と聞かれた。その時は正直に「どうって、好きでも嫌いでもないかなあ」と答えた。

彼はひどくがっかりした様子だった。十六歳年上で妻子もあるとその時はすでに知っていたのである。その後、最初で最後のラブレターを貰った。私のほうから先に手紙を渡したその返事だった。

 

【イチオシ記事】3ヶ月前に失踪した女性は死後数日経っていた――いつ殺害され、いつこの場所に遺棄されたのか?

【注目記事】救急車で運ばれた夫。間違えて開けた携帯には…「会いたい、愛している」

【人気記事】手術二日後に大地震発生。娘と連絡が取れない!病院から約四時間かけて徒歩で娘の通う学校へと向かう