【前回の記事を読む】今のようにスマートな生理用品はなかった。黒い大きなパンツを履かされ、広い大きな脱脂綿を適当にちぎり重ねて使用していた
第三話 三通の手紙
手紙は手(筆)で紙に書いたもの、という一説もあるとか。書き手の気持ちが込められた連絡手段といえるのかもしれない。私の人生で今でも心に残っている三通の手紙。
父からの手紙
四人兄妹の末っ子として育った私は、母親ベッタリだったので、父との思い出はあまり残っていない。三人の兄姉は大学進学を機に親元を離れていった。
両親(特に父親)の強い願いで、子どもたちは全員最高学府まで行かせてもらった。子どもたちに残せるものはないが、教育を受けさせることで自立し、それぞれが生活していける人間になるようにという教えだった。
時には、三人が同時に大学生という時もあり、やりくりはかなり大変だったと思う。私は地元の大学を選び、親子三人で暮らす時期が長かった。
しかし父とのことはあまり印象にない。お母さんっ子だった。目的があって父と何かしたとか、将来についてじっくり話し合ったとか、そんな思い出はほとんどない。
親と真剣に相談することもなく、なんとなく教員の道を選んでいた。二人の姉がすでに教員として働いていたというのが大きな理由かもしれない。
ただ、新潟県で就職するのは嫌だ、上京したいという気持ちは強かった。新潟県は名だたる豪雪地帯で、新規採用の教員は必ず、雪深い地域の学校に赴任させられると決まっていた。それだけは避けたい。
次姉と同居という条件付きで、上京は許された。東京都の教員採用試験に受かり、親元を離れる時が来た。
親としたら、末っ子の私はいつまでも小さい子どものままで、親の庇護が必要だと感じていたと思う。三月のある日、いよいよ旅立ちの朝が来た。玄関で父が無言で封筒を渡してくれた。
両親にとっては、長い子育て期間が終わり、一安心できる時が来たのである。感慨深い朝であったろう。父からは初めて手紙を貰った。かなり分厚い。父が歴史小説などをよく読んでいた記憶がある。
子どもの頃作文の手助けもしてくれた。文才があったのかもしれない。上野に向かう列車の中で父からの手紙を読んだ。二十二歳まで育てた娘への思いが綴られていた。
「他の兄姉と比べても、お前はしっかりしているので、仕事のことでは何も心配はしていない。ただ慣れない東京で、毎日の生活は大変だろう。健康には十分留意して暮らしてほしい。姉妹で協力して過ごすように」と書いてあった。
列車の中で涙が溢れた。何度も読んだ。