「フー、危なかった。あれだけ車が傾いても、タイヤがしっかり路面をグリップしてくれた」と、ため息をつきながら独り言をつぶやいた。

日帰りで往復出来ないこともないが、昼間でもこのような恐怖の国道七号線だから、夜中にヴィシーまでドライブするのは危険極まりない。

というもっともらしい理由をつけて、彼はパリに出た時は、一泊して翌朝戻ることにしている。もちろん泊まるホテルは一つ星かその下の流れ星と呼ばれる格安ホテルである。

ヴィシーでのフランス語学習と月一回パリに出て会社への報告、夜の自由時間を過ごすうちに七ヶ月ほどが経過した。

井原はいつものようにクラブ・カルチェラタンへ顔を出した。店内に流れていた音楽はシャンソンではなく日本で流行っている細川たかしの『心のこり』だった。

♪私バカよね おバカさんよね ……♪ 

ドラムの響きが小気味良い。

こういう歌を聴くと日本への郷愁がつのる。

クリスチーヌや他の女の子たちは接客中だが幸の姿が見えない。席を外してきたクリスチーヌをカウンター席の井原が呼び止めて聞いた。

「さっちゃんは休みかい?」

「サチ? さあ、どうしたかいな、しばらく来てないね。気になるの?」

クリスチーヌは井原の目を覗き込んだ。

「いや、ちょっと聞いてみただけだ」

井原は気のないそぶりをした。

クリスチーヌは井原の肩に手を置き、口を耳に近づけてささやいた。

「あなたには私がいればそれでいいですのよ」

少しチーズの匂いがする彼女の息を受けながら井原は、お前がいたって関係ねーよ、と思ったが言わない。彼女はフランス語の勉強に便利だから関係は保っておいた方が良い。

店のママにも聞いてみた。

「さっちゃんはね、突然来なくなったのよ。一番仲のいいクリスチーヌに聞いてみたけどわからないらしい。急に何かあって日本に帰ったのかも知れないわね。連絡が取れないからどうしようもないのよ。その内ふらっと戻ってくるんじゃないかしら」と訝しげだった。

 

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