【前回の記事を読む】日本食のあとは、やはりひかえめな日本人の女だ。酔いと共に男は夜のパリへと繰り出していく

二、 クラブ・カルチェラタン

井原はいつもカウンター席に座るので幸とはめったに話はしない。幸もわざわざ話に来ることはない。話をするのはもっぱら時々声をかけてくるクリスチーヌとであった。彼女が井原に特別の感情を抱いていることは言葉の端々にくみ取れた。

彼女はフランス人であるし、日本語も出来るので、井原にはフランス語の勉強には都合が良かった。それ以上の感情はない。

幸はいつものようにボックス席でお客の対応をしている。何のブランドか知らないが、カラフルでエスニックな装いが似合っている。

クリスチーヌがカウンターにいる井原の近くへ来た時に聞いてみた。

「クリスチーヌ、あのさっちゃんが着ている服のブランドは何?」

「気になるの?」

「おれは商社員だから、一応なんにでも興味があるんだ」

「ふーん、そうかい。あれはね〈ルネデリ〉というブランドですたい。ギャラリー・ラファイエットで買ったらしいわ。そう高級品じゃないけど、プレタポルテのカジュアルブランドで結構人気あるですよ。悔しいけどサチによく似合っとる」とクリスチーヌが言った。

時々面白い日本語を使う。

確かに幸はこの店の女の子の中でも目立つ方だ。だが彼女にはあまり笑顔がない。それがどことなく神秘的でお客に人気の理由にもなっているようだ。

あんなお客たちと話をしても楽しくないだろうな。だから笑わないんだ、と、井原は密かににがにがしく思うことがよくある。

七洋商事フランス支社所属の日本人駐在員の先輩たちも、時おり客や日本からの出張者を伴って飲みに来るが、彼らは当然ボックス席に陣取る。そして幸やクリスチーヌや他のホステスたちがすぐに彼らにつく。

井原は彼らに挨拶をするだけで、ボックスに同席することはない。研修生は肩身が狭いのだ。

パリ・ヴィシー間は南北に直線路の多い国道七号線をひた走れば良いのでシンプルではあるが、三車線という変則車線がしばしば現れる。つまり外側の二車線はそれぞれ上り用、下り用となっているが真ん中の一車線は上り下り共用の追い越し車線となっている。

上りと下りの両側の車線から同時に中央車線へ出て追い越しをかける。どちらも譲らない。そのままだと正面衝突となる。ぎりぎりのところまで来て、どちらかがあきらめて走行車線に戻る。

井原がある日パリから南へ戻る途中のことだった。中央車線へ出て前の車の追い越しをかけた。対向車線からはトラックが追い越しをかけてきた。

トラックは追い越しに時間がかかるから、当然トラックの方が譲って走行車線へ戻ると井原は想定した。それでそのまま中央車線を走り続けたが、右横の乗用車も譲ろうとしないでむしろスピードを上げてきた。井原はなかなか右横の車を追い越せない。

前から来るトラックも中央追い越し車線に残ったままで近づいてくる。両車の相対速度はそれぞれの速度の和となるから、またたく間に近づく。

危ない!

井原は追い越しをあきらめて、走行車線へ戻るために速度を落としてハンドルを右に切った。シトロエン2CVがローリングをしてぐらりと揺れた。そこにトラックが猛スピードで左側すれすれを通過していった。