もちろん、母にこの菩提樹が沙那美にとってかけがえのない〝命の恩人〟であることは、言えない。それはかつて沙那美が自殺を図ったことを母に知られてしまうことであったから……母を悲しませるだけだ。
菩提樹は風が吹くと、窓の外からさわさわと彼女に話しかけてくる。沙那美は部屋に流れる『リンデンバウム』の曲も一緒に聴いているかのように感じていた。
母が突然逝った日の前夜、沙那美の部屋でふたり、あの曲を聴きながら、彼女が大学を出たあと、父母と同じ教師、しかも母と同じ数学教師になりたい、と初めて母に正式に告げた。
そのとき、部屋の窓の外には、あの菩提樹に花が咲いていた。花の香りが沙那美の決心を祝福するようにふたりを包んだ。
「嬉しいわ。数学は苦手な人が多いから、好きになるような授業をしてね。かあさんはできなかったけれど……」
そう言った母の声が耳の底に残っている。沙那美はこの菩提樹を見るたびに母の言葉をおもい出すのだった。
彼女は何か困ったことや落ち込むときにはいつもこの菩提樹に話しかけたり祈ったりした。菩提樹はいつも沙那美とともに生きているといって言い過ぎではない。それに逝ってしまった両親がそこにいるようにもおもえた。
母も沙那美もこの菩提樹に格別なおもいを持っていたのだ。
次回更新は4月8日(火)、22時の予定です。
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