【前回の記事を読む】衝動的に丸椅子を持ち出して枝に寝間着の腰紐をかけ丸椅子を蹴ると「馬鹿なことするんじゃないわ。生きるんよ」と未知の声が…
神様の樹陰
恩人の樹(き)
チラシを見て沙那美はおもった。
(心に深く秘めた〝命の恩人〟。そのことを決して忘れないと誓った、あの菩提樹はどうなるのだろう)と。
来週にどうしても生徒に返さなければならないテストの答案が溜まっていたので、担当授業が終わると、家で採点をしようと、教頭に自宅研修と断って早退した。
菩提樹のことが気になっていたので、チラシに載っていた道路建設会社に電話をかける。無愛想な女の声がした。沙那美は工事のことを知りたいと伝えると、担当者に替わった。
「家の前の菩提樹はどうなるんでしょうか?」と沙那美。
「市役所の設計では伐採になっています」
「大樹です。環境保全のため、なんとかそのまま残すわけにいきませんか。ご無理はわかっているのですが、お願いします。なんとか……」
キツくなりそうな言葉をできるだけ抑え、相手の立場にもおもいを馳せながら沙那美は、なんとか……を繰り返した。
「ちょうど、車道と新設の歩道の境目ぐらいになりますからなあ。ご趣旨はわかりますが、残すか残さないかは市役所の監督さんが決めることですからな。わたしのところでは決められませんよ。市役所へ直接、言ってください」
担当者の声に次第に面倒な、というニュアンスが含まれ始めたような気がした。沙那美も担当者の言うとおり請負業者が決めることでないことは、納得できた。
なんや? 苦情か? 電話の向こうでささやきも聞こえる。ふと、沙那美は二階の窓から菩提樹を見る。
もうすっかり葉を落としていた。夕方の空に黒い線刻画が描かれている。夕焼けが枝枝の穂先まで赤く染め、やがて黄昏の暗紫色となった。