【前回の記事を読む】父を交通事故で、母を癌で亡くした。祖母には感謝しかないけど、こういうハレの日に自分の環境を呪ってしまう。

ハーデンベルギア

小さな門をくぐると、両端には色とりどりの花が咲き誇り、芳醇な香りを清らかな空気に混ぜていた。自然から受けた恩寵の全てを凝縮したような、濃厚なその香りを鼻から吸い込んで、体中に巡らせながら歩く。今は僕たち以外に、客はいないみたいだ。

ツタが寄り添う煉瓦造りの家。花屋として利用する大きなコンサバトリーに、日の光が数本差し込んでいる。 

小学校が近く、花屋の前が通学路だったため、以前僕と和也はよくここを訪れていた。その頃から一人で重労働する店主の柏木さんを見かねて、和也と一緒に遊びがてら手伝いをしていたけれど、実は和也には内緒で僕一人でもよく来ていた。その理由は、この花屋の最大の売りである撫子の花だ。

花弁は穏やかに裂けていて、その先端は力強く逆立ちをしている。茎は細く直立して、敵そよかぜ意のない微風にすらその身を委ねることはなく、凛としているその姿は、清廉な人がそこに立っているかのようだった。

季節になるといつも店の最前に陳列されていることと、柏木さんのエプロンが撫子の花柄模様であることから、彼の思い入れが強いことは容易に見てとれた。今思えば、僕が母の病室にあった撫子の花に興味を惹かれたのは、この店の撫子をとても気に入っていたからだと思う。 

でも、来てみてわかった。今この花屋を訪れるということは、心の中の何かが暗澹と蠢(うごめ)いて、僕の心を痛めつけてくる要因になると。

「颯斗、絵を止めたのは、お母さんのことを思い出すからか?」

和也は目を合わさず、落ち着いた声色で問いかけてきた。和也にはお見通しらしい。

「うん。元々母さんに喜んでもらうためだったし、描く意味もないからな」

何かを言いかけて、和也は言葉を止めた。そして少し上を向いてから、また視線を前に戻した。

「そうかなあ。めっちゃ楽しそうにいつも描いてて、お母さんのためだけには見えなかったけど」

「……」

僕の触れられたくない部分を見透かしていて、でも和也は執拗に言わない。それがありがたくもあり、申し訳なくもある。思えば、これまでの学校生活は、何度も和也の存在に助けられていたと思う。高校からは、それがない。不安が湧き上がる。

「ごめん! まあ、無理にやる必要はないわな。それにしても、ここの撫子の花は変わらないな。少し季節には早い気もするけど、相変わらず一番目立つ場所に並べてある」

確かにほとんど昔と変わらない。ただ一つ、大きく変わった点がある。まだ和也は気づいていなかったけれど、柏木さんと同じエプロンを着た見知らぬ女の子が、店の前で作業に精を出していた。見たところ、僕たちと年齢は大差ないと思う。

額は汗ばみ、髪先に伝うその水滴は艶を放っていた。バケツを店裏に片付け、再び店頭に戻ってきたと思ったら、少し屈んで花の匂いを嗅ぎ、朗らかで、ただどこか寂しさを含んだ微笑を顔に浮かべた。