【前回の記事を読む】「病床の母が喜ぶから」ただそのために、描いていただけ。かつて天才と言われた中学生男子の現在。

ハーデンベルギア

卒業式は滞りなく進み、最後は校歌を合唱して、中学生活に幕を下ろした。いくら思い出を頭の中で見ようとしたところで、淡く、輪郭がぼやけ浮動しているそれらを、なんとか掴んでも手の中で溶けていくだけだった。

いい記憶はある。でもなんだか、充実感を欠いている気がする。豪奢な卒業式の飾り付けと、会場を覆う紅白の幔幕(まんまく)の醸し出す非日常感が、虚無感をさらに増長させる。帰宅部ではあったけれど、昼休み中の友達との談笑とか、炭酸飲料を昇降口で買って、みんなで騒ぎながら帰った日々もいい記憶だ。

でも思い出すと、急にその記憶が霞がかかったように朧げになる。理由はわからない。なんでこうも、心地よくないのだろう。

和也のように自分も何かに打ち込めば、今の状況が変わったのだろうか。校歌を無感情で歌う自分を、変えることができたのだろうか。過去現在未来を慮ってみても、全く答えは出そうにない。高校生活でも、こんな日々が続くのだろうか。どれだけ考えても、未来への不安に思考が帰結するから、僕は考えることをやめた。

体育館の外では、両親と抱擁を交わしたり、両親に見守られながら、友人同士で未来への大志を語り合っている同級生がほとんどだった。家族同士の井戸端会議も、そこかしこで開催されていた。

友達とはさっきまで会話に花を咲かせていたけれど、この瞬間は違う。社会の連関から外れた今の自分を憐れみながら、僕はしばらく目の前の情景を体育館の端から眺めていた。

独りよがりな鬱積を抱えながら、僕はそそくさと教室に戻り、余白の目立つリュックに卒業証書を乱暴に入れ、先生に三年間のお礼を言って、足早に教室を出た。

父は僕が幼い時に、交通事故で亡くなった。母は癌で亡くなった。父はわけあって親族とは関係が悪かったから、残った親族は、母方の祖母だけだ。祖母には感謝しかないけれど、こういったイベントがある時は、あからさまに社会からつまみ出されている気がして、自分の環境を呪ってしまう。そんな自分も嫌だった。

歩きながら、変化のないアスファルトの映像が、俯く僕の目の中で上から下に動いていた。