【前回の記事を読む】僕はいつの間にか彼女の手を握って、スマホを顔に近づけていた。画面に映る赤いバラに、強烈に心を惹かれ急接近…
カタクリ
我に返った時、彼女の顔の赤らみ、手から伝わる体温と柔らかな肌の感触、ほのかに香る香水の匂い、温もりを帯びた鼻息、あかりという一人の人間を構成するあらゆる特徴が大挙して僕に襲いかかり、恥じらいを露わにした。手を勢いよく離し、彼女を背にする。
「ごめん。なんか見入っちゃった」
「ううん、全然! むしろ颯斗くんの子供みたいな顔見れて、嬉しかったよ。我、元気ないゆえ話しかけるな!みたいな顔、たまーにしてるからさあ」
「こないだも思ったけど、なんで時代劇みたいな言い回しなんだよ。それにそんな顔してないし」
振り向くと、彼女は安堵したような、安らかで喜色に満ちた表情をしていた。少しの沈黙。
園を囲うように茂る木立が風にそよぎ、音を立てて揺れているのがわかった。「よし! 次いこ次!」と彼女は僕の手を取った。彼女の頬が赤くなっているように見えたのは、気のせい。だと思う。
バラ園の奥に建つ西洋館はとある小説家の記念館で、そのすぐ横には別の噴水広場があった。また種類の異なるバラたちが咲き誇っていて、周りでは年配の方々が写生していた。思えば小学生の頃、柏木さんの店で、母のためによく撫子の花を写生していた。そうだ。コンクールに出されたもの以外に、何枚も。
とても大切な記憶を忘れていた気がする。僕の目の前のおじいさんがトイレに立ち、悪いとは思いつつ孤立した小さなキャンバスを覗き見た。バラの花弁が細緻に描かれていて、左下には奥様と思われる、〝愛子へ〟という文字が書かれていた。
「わあ! 素敵だね、奥さんのために描いてるのかな」
「そうかもね」
「あ、もしかして颯斗くん、自分の方が断然うまいとか思ってる?」
意地悪い笑みを浮かべて、あかりはこちらを見つめる。
「思ってないよ。絵にうまいも下手もない。どんなにうまくたって、誰かのために描いた絵に勝てるものなんてないって思ってる。だから、この絵はいい絵なんだよ。とってもね」
「ほほお。こないだテレビで有名な料理人さんが同じようなこと言ってた気がする。どんなに自分に料理の才能があったって、世のお母さんの料理には敵わないって。そんな感じだよね?」
「まあ、そうかもね」
あかりは得意げにガッツポーズをしている。僕の言うことを理解してやったぜ!ということなのだろうか。それにしても、自分の口から出た言葉にどこか既視感を覚えたことが心に引っかかった。
直近で似たようなことを誰かに言われた気がする。それは、大切なことの忘却に思えた。
アブラハムダービー、アンブリッジローズ、ウィズレー、イエローボタンなど、出口付近にまで所狭しと咲くイングリッシュローズを見ながら、僕たちはバラ園を出た。それと同時にあかりが突然立ち止まった。
「あ! そうだ! やってないとは思うけど、一応柏木さんのとこ行ってみる? 颯斗くんにとってあそこは思い出の場所でもあるし、何か絵のヒントになるかも!」
あかりの提案を断る理由はなかった。僕も行きたいと思っていたから。行きたいというより、行かないといけない。彼女のバラ園での笑顔を見てから、理由のわからないその使命感が僕の中で迸っていた。