【前回の記事を読む】焦りから鍵穴にうまく差せず、3度、4度目でようやく。勢いよくドアを開け、「誰!?」奥から響く足音に、硬直すると…

カエデ

「あれ? あかりちゃんと颯斗くんじゃないか! ビックリしたよ、急に大声と物音がしたから。あかりちゃんの声に似てたけど、泥棒かと思ったよ」

現れたのは柏木さんだった。以前見た時よりかなり頬は痩せて、髪も薄くなっている気がした。右手には大きめのシャベルを持っていて、きっと僕たちが泥棒だったらそれで撃退するつもりだったのだろうと思った。それが事実なら不本意だけれど、この状況では仕方ない。

柏木さんの姿を見て、僕は安堵してため息をつく。あかりはその場に座り込んだ。

「よかったあ……。私、安心して立てなそう。え!? というか柏木さん、入院は?」

今の発言は何だったのか。あかりは力強く立ち上がり柏木さんに疑問を投げた。「ああ、退院が思ったより早くなったんだ。心配をかけたね。本当にごめん。昨日退院して、今日は店の掃除に来たんだよ。あかりちゃんには明日電話しようと思ってたんだけど、もっと早く言うべきだったね」

柏木さんは以前より痩躯になったけれど、笑顔は変わっていなかった。相手への謝罪を口にする時も、日常の会話でも、絶えず穏やかな微笑を湛えている。相手の全てを認めてくれるような、包容力に富んだ笑顔は、あかりの時折見せるもの寂しいあの笑顔にどこか似ている。

「いえ! そんなこと言わないでください! 柏木さんは何も悪くないです。謝らないでください。それよりも、お体は大丈夫なんですか?」

「ああ、とりあえず店の作業はできるくらいに元気になったよ。心配かけて本当にすまないね」

明確な言葉で、体調の良し悪しの答えがなかったことに一抹の不安が湧く。が、考えすぎだと自分を諌めた。

「よくなったとしても、いきなりお店のことなんてやっちゃダメです。あと掃除くらいですか? 私も手伝います」

戸惑う柏木さんには目もくれず、あかりは白い内壁にかけられた作業用のエプロンを手にとって身につけ、小慣れた手付きで道具を手元に揃えていく。 あかりの表情は硬い。そして小刻みに震えているように見える。

たまに見せる彼女の怯えが何なのかはわからないけれど、柏木さんの体の痩せ具合から見て、体調が万全でないことは明白だったから、心配で仕方がないのだろう。僕はそっと、彼女が持ってきた箒に手を伸ばした。

「え、颯斗くん?」

「俺も手伝う。二人でやった方が早い。いいですよね? 柏木さん。拒否権はないですけど」

柏木さんは控えめな笑声をこぼして、「すまないね。では頼めるかな」と言った。

「颯斗くん……。本当にありがとうね。ごめんだけど、頼らせてください」

今にも泣きそうな微笑で、あかりは僕の目を仰ぎ見て感謝を口にした。彼女の普段の言動を疑ったことはない。けれど、この時は初めて、彼女が本音を言ってくれた。そんな確信があった。頼らせてくださいなんて、いつでも頼ってくれていいのに。

澱みのない連携を肌で感じながら、「まさかここで、園芸委員同盟の力が役立つなんてね」とあかりが言った。「園芸委員同盟って何だい?」と柏木さんがあまりにも素っ頓狂な調子で質問してきたので、僕とあかりは顔を見合わせて笑った。

店内の掃除を一通り終えると、「道具を洗うのは私やるから、颯斗くんは箒とか片付けてくれる?」と言って、あかりは戸外にある洗い場へと向かった。 

清掃された店内は、無機質な空気から有機質な温もりのある空気へと変質していた。人がいて、生活感が付与されることで、命の来訪者の扉が開かれたような開放感を覚えた。

戸外から届けられる水流の音色を聴きながら片付けをしていると、茶の香しい匂いを引き連れて、柏木さんがお盆を両手で抱えながら奥から出てきた。お盆の上には三つの湯呑み茶碗と、芋羊羹が載っている。

「颯斗くん、ありがとう。少しお茶でもしよう」

柏木さんは「少しだけ持っていてくれるかな?」とお盆を僕に手渡すと、ガーデンチェアーを三脚運んできた。

「さあ、颯斗くん。疲れたろう? 椅子にかけてくれ」

小さなガーデンラックの空きスペースにお盆を置いて、「ありがとうございます」と言って僕は腰かけた。正対して椅子に腰かけた柏木さんを見ると、思えば柏木さんと二人きりになるのは小学生以来だと思った。恥じらいからか、緊張からか、僕は顔が強張っているのを感じた。

「あかりちゃんと仲良くなったようで嬉しかったよ。前にあんな再会をしてたから」

柏木さんは思い出し笑いをして、お茶を啜りながらお盆の置かれたガーデンラックを手元に寄せた。

「あれはあかりが失礼な態度を取ったからですよ。柏木さんも見てたでしょ? あの失礼な言い方。って、再会ってなんです? あかりと会うのはあの時が初めてだったはずですけど」

柏木さんは微笑を崩さない。僕の言葉を待っていたかのように、表情を変えないまま僕に視線を移した。

「ああ、そうだね。あかりちゃんは話さない気がするから、私から話そうかな」

お茶をもう一度啜り、お盆に戻してから端然と背筋を伸ばし、柏木さんは僕の視線を強く掴んだ。緊張を帯びた静寂が、隈なく店内を覆う。

本連載は今回で最終回です。

 

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