パンナムの日本人CA第二期生として最初に配属されたのは、ハワイでした。そこに三年ほど住んだ後、私はニューヨークにトランスファー(移籍)しました。この移籍が、私のイタリア熱に火をつけることになります。

移籍の理由は、持ち前の、未知のものにチャレンジしたいという単なる好奇心。ルームメイトも次々に結婚し、私は一人になっていました。どうせ一人暮らしするのなら、本社のあるニューヨークに住んでみようと思ったのです。

学生時代に観た映画、ケーリー・グラントとデボラ・カー主演の『めぐり逢い』のワンシーン、それはマンハッタンの夜景の美しさでした。あの一コマが頭の中に残っていたことも、少なからず私の好奇心を刺激したのは事実です。映画の感動に酔い、

〈私もいつか、あの大都会に住んでみよう〉と考えたのです。何の知識もない当時の私にとってニューヨークは夢と憧れの街でした。

1970年6月、七つのスーツケースを携えて、深夜のジョン・F・ケネディ空港に降り立ったのでした。飛ぶことは商売なので、一人旅でも何のプレッシャーもありませんが、降り立ったのは、誰も知り合いのないニューヨークです。じわっと心細さが広がってくるのを覚えました。もちろん出迎える人とてありません。

その晩はひとまず空港近くのホテルに一泊しました。翌日、簡単に手頃なアパートが見つかるものと楽観していたのですが、そうは簡単に事が運ばないのがニューヨーク。仕方なく、マンハッタンの大通りに面したホテルに腰を落ち着けてから、アパート探しをする羽目になりました。

ホテル住まいは足場はいいものの、一晩中車の騒音に悩まされ、部屋探しの苦労と重なって、たちまち疲労困憊の状態。結局、二週間経っても手頃な物件に出会えず、やっとのことで、会社の掲示板に張り出されていた空港行きのターミナルバスの路線に近いアパートに落ち着きました。

私がニューヨークで暮らし始めた数年間は、泥沼化したベトナム戦争の陰湿なエネルギーが醸し出す苛立ち、退廃、自暴自棄といった現象があふれていました。犯罪やけんかなど日常的で、銃声もしばしば耳にしました。

そんなニューヨークも住めば都ということでしょうか。徐々に暮らしやすい便利な街であることに気づき始めたのです。ショッピング、映画、オペラと見所も多く、活気にあふれている街でした。四十数年前マンハッタンには、すでに日本料理店が何百軒とありました。

 

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