「まずはご挨拶ということで。もう下がっていいよ、ご苦労さん」

そう言われて、骸骨は操り人形のように立ち上がった。頭の中が真っ白だった。何も考える余裕がなかった。彼のことばが耳の奥で木霊した。その様子ににたりと嗤うと、伊藤医師は悠然と料理に箸をつけ始めた。

   

翌日は朝からどんよりとした天気になった。和美は何故か昼を過ぎても松林に姿を現さなかった。それで午後の作業の合間をみて厨房から居間の様子を窺ってみたのだが、妙に態度がよそよそしかった。骸骨には訳が判らなかった。一体何を怒っているのだろう、不機嫌の理由は何なのだろう。ここ数日のことをあれこれと思い起こしてみるのだが、全く見当がつかない。

それは次の日も同じだった。今日は来るかと昼の一時を松林の中で過ごしていたのだが、その期待も虚しかった。時々背後でカサッと音がして振り返ったが、それはみな空耳か風の悪戯だった。

骸骨はしょんぼりとしてしまった。彼女のいない岬は森閑として、かつては安らぎを覚えた静けさも今では心寒いだけだった。あれ程眩しかった海も今では鉛色にくすみ、白い波頭の一つ一つが心を逆撫でするかのように思われた。

「モウ、夏モ終ワリカ‥‥」

骸骨はぽつんと呟いた。ふと気がつくと足元に蟻が群がっていた。何事だろうとその長い列を追っていくと、そこには真新しい蝉の死骸が落ちていた。蟻が獲物を見つけて大騒ぎをしているのだ。骸骨は淋しい微笑みを浮かべて、暫らくその様子を見守っていた。そしてつっと立ち上がると宿への路を戻っていった。

ところが陽の暮れるのを待って神社へ行ってみると、渡り廊下の所に和美が腰を降ろしていた。何かを内に秘めているような、あるいは待ち受けているような妙に硬い表情をしていた。だが骸骨はそれには気づいていなかった。やっと和美が姿を現してくれてほっとしていた。いや、別のことに気を取られて、彼女が楽器を持っていないことにすら気づいていなかった。