【前回の記事を読む】薔薇を、私の薔薇を見ている! それほど熱心に見てもらえるなんてと、突然喜びが湧いてきて…

第1章

典子の庭

「マリ、早く来てよ! 上の方がもっと見晴らしがいいわよ!」、ノリコは後ろに向かって叫ぶけれど、マリは動こうとはしない。典子の方がしぶしぶ下に戻っていく。

その前方だけは樹木が切れ、ベタ凪の海が果てもなく開いていた。海の色は深い藍から鮮やかなマリンブルーへ微妙なグラデーションで塗り分けられたかのようだ。

「ノリ、ほら見て、ヨット!」

眼下の左奥に入り江の口が覗き、今しも白い帆を上げたヨットが、外海に向かって舵を切ろうとしていた。泡立つ波でヨットがエンジンを積んでいるのがわかった。群青のキャンバスに白い航跡が立っていった。          

翳(かげ)りを帯びた藍からブルーを増していく潮に、波の白を際立てて、航跡がきらめき伸びていった。

「まるで絵のようだね」、マリが言う。

「ええ、絵のようだわ」、ノリコが頷く。

テラスに駆け戻ると、大きく、息を吐いた。目の錯覚なのだ、と思った。過剰なほどの色彩と光が、視覚に何かの作用を起こしたのだ。いくら時が経ったにしても、マリがあんな風な別人のようになってしまうはずはないもの……。

―― それもこれも、私自身が動揺しているせいなのだ。もっと落ち着かなくてはいけない――

そう自戒しながら典子の手は、半ば無意識にテーブルの薔薇に向かっていく。一度は断念した詰め込んだだけの花瓶から典子は黄色の(インカ)、黄色から赤に色変わりする(ミラマーレ)も外していった。

長い離別の間でも、典子の中で時は過ぎ去るものではなく、円環のように巡っていた。茉莉が女学校の頃のままであるはずもない、と頭ではわかっていても、過去は何ひとつ変わらず典子の現在の中に、混然と巡っていた。

しかし今、次第に心が静まっていくと、さっき目にしたものは、全くの幻惑ではないのかもしれない、という思いが起こった。

―― 茉莉もまた、見知らぬ者でもあるかのように私を見ていた。きっと私の知らない私の顔を……。もう私もあの頃のように無心に笑える事はないのだから。別れてしまってから、例えようもないほどの年月が過ぎてしまった。その間、茉莉には私の知り得ない時が過ぎていたのだ―― という自明の事が典子の中にはっきりと刻まれていった。

茉莉が外資系銀行の東京支社に勤務しているという事を知ったのは、つい半年前の事だった。服装などに疎い典子が見ても、完璧な装い。第一線で仕事をこなしている者が身にわせている雰囲気。それらに初めは戸惑ったが、熾烈な世界で生き抜くのがどれほどの事なのか、典子にも想像がついた。