【前回の記事を読む】予備校に入ると、東大合格確実圏内だった! 隣の席には、現役時代まったく歯が立たないと思っていた開成高校、麻布高校卒業生が…

第1章 自分の特徴は自分でもなかなか把握できない

1975年3月/東大受験のとき・合格発表のとき 

そして、3つ目は、21日に両親が東大の合格発表の掲示板を見に、仕事を休んでふたりで東京に出かけたことだった。両親は太平洋戦争を経験している。父は水戸連隊として学徒出陣し満州駐屯、ソ連との開戦を経てシベリア抑留というとんでもない20代を送った。

のちに、水戸連隊はパラオ諸島のひとつであるペリリュー島へ転戦したが、父は満州に残ることになった。そのままペリリュー島へ転戦していれば戦死している可能性が非常に高かったはずだ。一方、母は10歳のときに父親がフィリピンで戦死し、母の実家はわずかな遺族年金での生活となり、戦後の混乱期の生活はとんでもなく苦しかったようだ。

両親は、戦後すぐの混乱した時期のなかで祖父母は当然のこと、夫と死別した妹親子を引き取り、4人の弟妹が結婚するまで面倒をみて、さらに自分たちの4人の子ども(姉、兄、実、妹)を育てながらの坂入家再建だったので、朝から晩まで働き詰めだった。ふたりで出かける時間など作りようもなかった。

それが実の大学合格を機会に、ふたりで初めて東京に出かけることになったのだ。「行けなかった新婚旅行だ」と、母が妙にはしゃいでいたのを今でもよく覚えている。小さいときからとても変わった子で両親にはかなり心配をかけたと思うが、これで多少の親孝行はできたかなと、合格とは別の喜びが実にはあった。

21日夕方、父は東京から帰宅後、早速、日本経済新聞社に写真のことで嬉しそうに電話をしていた。後日、きれいに包装された写真が届いた。

そして、もうひとつどうしても加えておきたい話がある。4月の東大入学式のことだ。当時は武道館で開催された。一家族1枚の入場券しか渡されなかったので、律儀な両親は交代で武道館に入ることにしていたようだ。

両親 守衛さん、入場券が1枚しかないので、交代で入学式会場に入ります。

守衛さん なにを言っているんですか。息子さんが東大に合格されたんでしょう。構いませんから、おふたりで入学式会場に入って、息子さんを祝ってあげてください。

母は、ずっとあとまで、このことを折に触れ、皆に話していた。とてもうれしかったのだろう。心から守衛さんに感謝。

実が、これまでの人生のなかで一番不安にかられていたのは高校時代かもしれない。いろいろな情報がインターネットを通して簡単に得られる現代と違って、地方に住んでいると大学受験に必要な情報はかなり限定されてしまう。正直、高校時代の実はその大きな不安感を打ち消すかのように、かなりの時間を勉強に費やしていた。