【前回の記事を読む】御祈祷や治療の甲斐なく仏の世界へ旅立って行かれた方…何年も御参詣を続けたことは意味がなかったことなのでしょうか?
御祈祷とは感応道交の世界
私たち人間は何かにおすがりしたいという気持ちを本能的に持っています。長い年月をかけて培ったものなのかもしれません。
スポーツ観戦などをしていても野球やサッカー等の国の威信をかけての国際大会等でギリギリの戦いになれば、なるほど応援している方も手を合わせていて自然と何かにすがりたくなるものです。小学生の時にテストの答案が返って来る際にはそれで点数が良くなるわけがないことは理解していても良い点数でありますようにと自然と手を合わせ願ったものです。
何かにすがりたいというのは私たちの本能であると思うのです。皆さまはどうでしたか? 私は高校生くらいになると学校に行く途中にお地蔵さまが立っていると自然と自転車を止めて手を合わせたりするようになりました。
悩み多き年頃、健やかに過ごしたいという一心からお地蔵さまにおすがりしたいと思ったのでしょう。御先祖さまのお墓参りをする、仏壇に手を合わせるということも感謝の誠を捧げ健やかに過ごしたいその一心であると思います。それは健全なことで、まさにおすがりすることも大きな信心安心でございます。
そして皆さまが心から願い真摯に御神仏さまと向き合われた時に皆さまの信心安心、真心を御神仏さまは必ず受け止めてくださいます。なぜなら御祈祷や御参詣とは感応道交(かんのうどうこう)の世界だからです。そして虚空蔵菩薩さまは私たちとともにご修行をしてくださる御本尊さまでございます。
仙台虚空蔵尊の御祈祷の回向(えこう)の中に、「この祈祷あれば必ず感応(かんのう)を蒙(こうむ)る」という一節がございます。
「この御祈祷のご修行を御神仏さまとともに勤めていただくことができたなら皆さまの信心安心、真心は御神仏さまに必ず伝わり、自らの修めたご祈祷の功徳が他にも差し向け巡り巡って私たちに生きるお力をいただき、歩むべき正しい道をお示しくださいますよ」ということでございます。
御神仏さまと私たちが正しく繋がっていくこと、このことを感応道交(かんのうどうこう)と申します。こうして御加護をいただき心の安穏をいただくことが御祈祷の最も大切なところです。
最近では参詣者、崇敬者の方々からメールやお手紙をいただくことも多くなりました。その中である女性から、「病気になってから本当に辛かったけど虚空蔵菩薩さまのもとに来るようになって穏やかに生活することができました。生きることを諦めることなく一日一日を大切に生きたいと思っています」というお手紙をいただきました。
人生の辛い時に前向きな気持ちをいただくことこそが御祈祷の意義でございます。その中にはご家族で御祈祷にお越しになられる方も多いのです。皆さまでご参列いただいて心を一つにして手を合わせご修行いただくという行為がとても重要なのではないかと思うのです。
ご家族が病気になるということはご本人にとってもご家族にとっても本当に辛いことですが、その苦しみを分かち合うことで、御加護や安心をいただき心強さになっていきます。天壽を迎えて亡くなったとしても、残されたご家族は治療の他にも気持ちを一つにしてできる限りのことはやったという想いでご家族を見送ることができるかもしれません。
辛い時こそ御神仏におすがりいただきたいと思います。
健やかなる時も病める時も信心安心を持つことで生きることの本質を見極めることができます。
あっという間に過ぎ去って行く私たちの人生の歩みですが一日一日を大切に生きるということ、その根本には揺るぎない御神仏への信心があり、人生の歩みが心強いものに変わっていくことでしょう。