【前回の記事を読む】今までうなり声など上げた事がない犬が、戸を睨みつけている。誰かいるのか…? よもやあの牢人が俺を討ちに来たのか? 何故?

急襲

むせ返るような青葉の匂いと、雑木のあちこちから聞こえてくる山鳥の声が源五郎達を包んでいる。

早朝、河越を出発し府中と河越を結ぶ人気(ひとけ)のない木立(こだち)が続く河越道を、心地よい風を浴びながら快適に歩を進め、陽も高くなり蟬の鳴き声がうるさいほど響き、暑さと人流がじわじわと増し始めたころ所沢に入った。

当時の所沢は「野老澤(ところざわ)」とも書き、野老が群生し湿地が広がる地であった。

源五郎達は施肥(せひ)を撒く百姓を何気なく見ながら鎌倉街道上道(かみつみち)に入る。

鎌倉街道上道は三百年以上前、源頼朝により鎌倉に武家政権が誕生した際、各地から鎌倉へ人びとが参集するようになり、やがて通行量の多い道筋が鎌倉街道になったとされる。

鎌倉より放射線状に全国へと伸びる街道の中で、関東地方西部を通るこの街道は上道と呼ばれていたとされるが、はっきりした事は解っていない。

それは鎌倉幕府が百五十年程度で崩壊した事と、鎌倉街道そのものも社会の変化と共に人流も変わり多くの道筋が失われ、現在は不明な箇所も多く「幻の街道」とも呼ばれているからだ。

源五郎達はこの街道を南下し国分寺で昼餉をとり、府中へと入ったのは午(うま)の刻頃であった。

宿場外れには夏草に埋もれるように、周囲十五間ほどの大きさの窪地があり、旅人が首の汗を拭いながら、そのすり鉢状の底へと螺旋を描くような小道を降りて行く。

「あれは何だ?」

「あ~、あれは、まいまいず井戸でごいす」

「井戸?」

「ここらは土が崩れやすいんで、ああやって大きく井戸を掘り進めるんでごいすよ」