「救世主のことを、今何と呼んだんだ?」

「この子どもは神を恐れないのか」

「どこの子どもだ?」

「異端者に違いない」

お母さん、と、呼ぶ間もなかった。大人たちの手で、脚で、腕で、殴られ、蹴られたのだからだ。血まみれになり、痛みはもはや痛みとして知覚されないほどである。

――「異端者だ」

聞こえくる声の意味はつかめなくても、こちらへ向けられる感情の鋭さが恐ろしかった。

――「異端者だ」

鼻からの出血に加え、口も、脚も、腕も、血だらけである。暴行を受けたところはみるみる痣(あざ)になり、怖くて、すぐそばで交わされる言葉を聞いている余裕などない。

気が付くと私は家の中にいた。微かな光が窓から差し込んでくるだけの、薄暗い部屋に私はいる。母が私の腕に、つんとした消毒液の臭いのする包帯を巻いてくれている。

物音はせず、私の体は光の中に包まれているようだ。私はどうして良いか分からずにいて、母もまた沈黙を保ったままだった。

母が泣いてるような気がして、私はおもむろに体を起こした。母の頬に涙はなかったけれど、その瞳は静かな光をたたえていた。

「涼は、間違っていないよ」

「お母さん。何が、間違っていないの?」

「私たちは皆、地獄に落ちるのよ」

「どうして?」

私はとても驚いた。母の手にすがりつき、問いかける。

「どうしたらいいの? どうすれば皆、地獄に行かなくて済むの?」

「そうねぇ、でも、涼が私たちを助けてくれるなら、皆救われるかもしれないね」

私は力強く頷いた。方法はまだ分からないが、私が皆を助けることはきっとできる。

「分かった。お母さん、僕が皆を助けてみせるよ」

私はとんっと軽く胸をたたく。母は泣くような笑うような、私が見たことのない表情を浮かべていた。その母の顔が、みるみる歪んで消えていく。視界にはだんだんはっきりと、私が暮らす家の濃い茶色の床が浮かび上がってくる。

幻聴はすでに止んでいた。記憶を思い出すことを休止し、私はただもう、ひたすらに事実だけを追想していく。

あの日。私がおじいちゃんと呼びかけたのを聞いて、信者から救世主と称される老人は立腹した。おそらく「おじいちゃん」という響きは、彼には侮辱だったのだろう。

 

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