【前回の記事を読む】統合失調症で離れて暮らす兄への手紙:三年以上返信がなければ、お兄さんにとっても話しにくいことなのだと思って、自分の心のうちにしまって生きていきます。
第一章 靴
【 一 】
茶を少し飲んで、薬も飲むことに決めた。朝と晩に規則正しく飲んでいる薬であって、気持ちを落ち着ける効能がある。お茶で薬を飲んでから、私は再び考え込んだ。
(妹に何と言えばいいのか)
肉親には、父母の他、弟が一人妹が一人いる。家族構成だけで言えば、兄弟の数が多いことを考えないことにすれば、特に珍しくもない。
だが、合点がいかないのは、私の両親が見合いも恋愛もしていないことである。そのころ入信していた「新興宗教」の教祖からの勧めで二人は夫婦となった。その団体は再先文(ブンジェソン)という老人を教祖とし、信者には日本人も多く、奇怪な巨大コミュニティを作り上げていた。
いや……宗教とは名ばかりの、カルト集団と言うべき存在であったろう。そうでもなければ、この、どこにでもいそうな平凡な老人にしか見えない教祖に、「この人はあなたの運命の人です」と言われただけで、年若い何組もの男女が結婚をするだろうか。
それだけではない。教祖の託宣に従わず、言われた通りに結婚しなかった者が暴行をうけ、追放されるというようなことが起きるだろうか。
昭和五十九年の寒い冬の夜、私はそんな場所で生まれた。
そして、自分の意思とは関係なく、カルト教団の一員として育てられることになる。
抵抗など、できるはずもなかった。私は生まれたばかりの幼子にすぎず、何も知ってはいなかったのだから。それに、本来であれば真相を教えてくれる立場であるはずの両親も、教団に洗脳されてしまっていた。
何も分からぬまま成長した私が、自分が暮らす場所の残酷さに直面したのは、四歳の時のことであった。
――「異端者め」
耳元で、囁く者がある。
(…………幻聴だ!)
分かっていても、私はそれを自分の意思で打ち消すことができない。あの日、私は子どもであった。四歳の子どもである。母の膝の上で、静かに話を聞いていた。同じような白服に身を包んだ隣人たちもまた、壇上に立つ丸い顔をした老人の話を聞いている。
私の言葉は今や、あらかた私の意思に沿うものとなっていた。しかしその一方で、老人が語る言葉の持つ意味は、まるで判然としない。周りの様子が気になり始めた私は、出し抜けに壇上を見上げる。
にこやかな顔つきで、老人は何か話している。年端も行かぬ私に、老人の話は依然、分からないままである。私は、この老人をどう呼んだものか知ったばかりで、その呼び名を口にしてみたくてうずうずしていた。
手を振り、そして叫んでみる。
「おじいちゃーん」
私の方を見ていたはずの老人は、ぷいっとそっぽを向いた。それに呼応するように、聴衆がざわめき始める。
胸ぐらをつかまれ、母の膝から引き離されて、私は宙づりにされた。