③ 妙子、小学生になる

《環境》

家庭

私が小学校に上がる前には両親はお店をたたみ、父は単身赴任で出稼ぎへ行くようになりました。その頃は決して裕福な家庭ではありませんでした。

父が家族の元へ帰ってくるのは正月とお盆と運動会の時の年に3回だけになりました。父が家へ帰ってくるのは私にとってうれしいことでしたし、母と姉と私で色んな料理を出して家族で食卓を囲む時には“家族団らんはいいものだな”と感じていました。

宮永家では年に2回ほど、外食をしていました。家族全員、暗黙の了解で一番安いメニューを選びました。

別に、ちょっと豪華なエビフライ定食を食べられなくても、お店の雰囲気を味わうだけで、とてもワクワクしていました。

ドライブに行けば遊園地がありましたが4人分の入場券を買うことはできず、近くの駐車場に車を止めてジェットコースターに乗っているお客さんの絶叫する声を聞いて、その様子を見て家族で楽しんでいました。

昼食は食パンを買って食べました。ジャムを買う余裕はなかったので、家族4人で素朴な味わいのパンをかじりながら次にいつジェットコースターが動き始めるのか楽しみに待っていました。

宮永家には、皆が当たり前のように持っているおもちゃもあまりありませんでした。クリスマスにサンタさんは来ませんでした。クリスマスプレゼントは毎年30cm位の長靴に入っているお菓子でした。

しかし、両親がとても仲が良く、そして笑いの絶えない家庭だったため、私も姉も不幸だと感じることはありませんでした。お店で一番安いジャンパーでも、姉とお揃いのジャンパーはうれしかったのです。

小学校

私は小さな集落にある、少人数の小学校へ入学しました。

私は小学校に入学してから3年生の終わりまで学校生活にあまり馴染めずにいました。自分の気持ちを言ったりすることができず、はっきりと発言してくる子の言うままになっていた傾向がありました。

自分から発言することがあまりできず“大人しい子”だと先生に言われていたそうです。

《特徴・性格》

宮永家はよく親戚が集まる家でした。仲良しの美鈴湖とは二人で遊ぶことが多く大人になってから美鈴湖からよく聞くのは「思い通りにならなければ凄い勢いで怒るから妙子を怒らせないように遊んでいた」というエピソードです。

大人たちに怒られることよりも、私に怒られないことを選択し、美鈴湖は私との約束を守っていたと言います。

姉との姉妹喧嘩が始まると口で勝てない時はティッシュの箱などの大けがをしないような物を投げつけていました。それでよく母に叱られていました。

正月の年越しの前には毎年、父を中心に神棚と仏壇を掃除していましたが、私は気が向いた時しか手伝いませんでした。

3人が忙しそうにしていても、手伝えば褒められると分かっていても私は自分がやっていることを中断して手伝うことにストレスを感じやすかったのです。

両親はいつも姉を頼りにしていました。私は“やる時はやるし、やらない時はやらない”と認識されていたのでしょうか。それについては叱られたことがあまりありませんでした。

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