「意地悪な話し方してごめん。ご心配なく。鈴木トレーナーが愛莉に話を聞きながら、チケット等を確認して、変更の手続きをしてあるから。ちゃんと更新済ませたよって話したけれど、愛莉の耳には入っていないと思うって言っていた」
空港に着いたときの何か忘れ物をしているような気持ちの正体はこれだったと合点して、礼を言った。
兄が、目の前であのようなショッキングな亡くなり方をして、自分の名前さえとっさに言えないような状態だった。言葉もうまく出てこなくなっていた。初めてのことで、解剖や飛行機の手続きなども、全く分からず、ただ、オロオロしていた。
涙を流すことすら忘れていた。そんなときでも、外から見れば自分はトップアスリートであり、RTPAなのだ。二十四時間、三百六十五日、居場所情報を提供しなければならない。
世界ランキングの上位の選手たちはRTPAと呼ばれ、常に自分の居場所の詳細をADAMSに情報提供しておかなければならない。アスリートが確実に検査を受けられる六十分枠を指定しなければならない。
変更があればその都度届け出をADAMSから行わなければならない。今の自分はそういう立場にある。一般にIDCOと呼ばれている国際検査員が来たときに確実に対応しなければならない。
そのために自分の居場所を情報提供しておかなければならない。もし、それを怠り、DCOやIDCOが接触できなかった場合、アンチ・ドーピング規則違反に問われ、アスリートとして資格停止処分になることもある。停止期間は長い。
現に、二〇一九年、居場所情報の不備から三回立て続けに検査未了になって十八ヶ月間の出場資格停止処分になった百メートル走の選手がいた。後になって思い返せば、確かに急に麗央のレースを見に行くことになったときも、ADAMSから変更届をした。今までは、常にしていることだった。一度も忘れたことはなかった。
それが、麗央の事故を見た途端に頭が空っぽになってしまった。居場所変更手続きのことも、情報管理システム、ADAMSや世界アンチ・ドーピング機構、WADAのことも頭の中にはなかった。水泳のことさえ抜け落ちてしまっていた。
ただ、妹として兄を日本に連れて帰らねばならない。両親がドイツに到着するまでは、自分の悲しみに浸る暇はない。自分一人で全てを執り行わなければいけない。頭の中はそれでいっぱいだった。両親が合流してからも、ただただ忙しかった。愛莉には、気遣ってくれる仲間のいることがありがたかった。
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