兄の事故死への疑問

椅子に腰掛け、リンゴジュースを注文した。麗央は

「今からとんでもないG重力を生身の身体で受けるのだから」と、水で口を湿らせただけだった。

「ここの併設のホテルに部屋を取っているから、レースの後で食事をしよう」と、麗央が言った。

「もっとも、初めて泊まったホテルなので、どこの何が美味しいかは分からない。噂だけを頼りに予約をしている」

麗央から観客席のチケットを受け取り、一日分の着替えだけの小さな荷物をロッカーにしまって、階段を上った。観客席からは山々の稜線が間近に見える。まだ芽吹きの季節を迎えていないのか、山肌の緑は深く暗い。

なぜドイツの森がシュヴァルツ・ヴァルトと呼ばれるのか、不意に納得した。黒くて暗い。針葉樹のどしんと重くて沈んだ緑が、山間を流れる風に揺れている。幾重にもねじれた木々が人間を拒んでいる。コースの一番遠い奥の方は山が少し霞んでいる。

西の空にひとかたまりの黒い雲が見えた。レース場も愛莉の生きているフィールドとは全く異なっていた。そもそも、レースをしているところ全てが見えるわけではない。コースの大半は見えない。スクリーンに映し出されるのを見るしかない。サッカーや野球なら、視線を動かすだけで全体が見えるのだが、ここではスクリーンが頼りだ。

麗央のチームは皆良いグリッド位置につけていた。マシンに乗り込み、全車一斉に走りだした。誘導車とともに一周するフォーメーションラップの後、愛莉のいる観客席の前で、一斉にエンジンを全開にし、爆音を立て、ロケットのように飛び出した。抜きつ抜かれつしながらも順調なレースだった。何回もレーシングカーが飛ぶように、観客席の間を通り過ぎていく。

麗央の車がコックピットに入っていった。他の車に目を向けようとすると、すぐにコックピットから出てきた。神業のようなタイヤ交換だった。他の車も次々にタイヤ交換をするが、どれも皆、瞬きしているうちに終わってしまう。愛莉はただただ感心しながら見ていた。

最終周になって悲劇が起こった。麗央の車がフェンスに激突し、大破した。砕け散った破片がスローモーションで四方に飛び散った。そして愛莉はたった一人の兄を失った。