間もなく試合が始まる、という直前になって、審判委員の1人に尋ねられた。
「彼のユニフォームはOKですか?」
生地を見ると明らかに薄い。張西は即答した。
「これはダメです」
審判が首をかしげる。
「でも事前の武器検査ではOKのスタンプが押してあります。どうしますか?」
思わず絶句した。多く見積もっても15分後には試合が始まる。しかもその選手はバングラデシュから唯一出場した選手であり、他の代表選手はいない。すぐに新しいウェアを購入させてでも試合に出させなければ、と考えるも会場にウェアを売るショップは出店していない。
他国と異なり、他にも出場選手がいればユニフォームを借りることができるがそれもできない。
苦肉の策として、日本選手団に事情を伝え「彼と同じサイズのユニフォームを貸してやってくれ」と頼み込むと、すぐに用意して持ってきてくれたが、右手と左手、利き手が逆で使用することができなかった。
心情的には何とか出してあげたい。ましてやバングラデシュから1人しかいない出場選手なのだ。彼がこれまで積み重ねてきた努力や思いを考えればなおさらだったが、もしも万が一、その薄い生地を剣が貫通し、事故が起きたらどうなるか。
選手個々人の問題では収束せず、フェンシング競技全体の大問題に発展する。とはいえ、一度は通った武器検査での認定を直前で「ダメ」と判断すれば、選手を派遣したバングラデシュの協会も黙ってはいないはずだ。
さまざまな考えが頭をぐるぐるとすさまじいスピードでよぎる中、張西は判断を下した。
「ノー。このユニフォームでは、規定をクリアできないので出場は許可できません」
伝えるのは苦しさが伴った。そして最悪の場合、バングラデシュ協会から訴えられるとしたら、責任者である自分だという覚悟もあった。
だが、直前まで自分のために「ユニフォームを貸してやってくれ」と日本選手団も巻き込み尽力する姿も見ていた選手は、予期せぬ事態も受け入れた。そして後日に至っても、バングラデシュから張西を糾弾する声は上がらなかった。
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