【前回の記事を読む】前代未聞の延期となった東京五輪。徹底した対策の甲斐あり、開幕から競技最終日まで1人の陽性者も出ることなく終了した。

勝つためにすべきこと 張西厚志

「エペもずっと頑張って来て、選手個々のランキングも高かった。行けるやろう、と思う一方、五輪という晴れ舞台で金メダルという目標が達成できるかといえばそう簡単ではない。でも、やりよりましたね。とにかく加納(虹輝)がすごかったし、サーシャ(ゴルバチュクコーチ)も見延(和靖)も、山田(優)も、宇山(賢)も頑張った。何十年という長い年月をかけてきたからこそたどり着いた、最高の成績でした」

振り返ればいくつもの分岐点があり、もしもそこで違う選択をしていたら、この結果にはたどり着いていなかっただろう、と噛みしめる。

1997年の大阪国体へ向け、再び自分がフェンシングの現場へ戻ることがなかったら。FIEの委員会委員となり、オレグを招聘することがなかったら。

「最初は、何やっとんねん、と笑われるところからのスタートでしたけど、でも何としてもやってやろうと、どれだけ反対されようと改革のために貫いた。五輪でメダルを獲る、なんて誰も本気に思っていない頃からでしたから。

でも僕はね、根本的に何でもそうですけど、とことんやるのが信条ですから、目標を立てたらそこに向かってとことんやるんです。たとえ時代が変わろうと、どんな問題があろうともそれぞれの時代に合わせてとことんやるし、徹底的に追及する。その気構えがなかったら無理でしょう。選手やコーチ陣、周りにも恵まれて、一つの道筋はつけられたのかな、と思いますよ」

妥協なく、突き進む。張西の執念が、後の快挙へとつながった。そして積み重ねてきた実績を高く評価され、2018年には旭日双光章の叙勲も受章した。

「いろいろな経験をして、東京五輪でエペ団体の金メダルという貴重なものも見せていただいた。僕の人生は最高ですよ」

張西のさまざまな決断と、行動力によって、今へとつながる道が拓かれた。