その学生が後に日本フェンシング協会理事で、副会長を務めた山本正秀だ。北京五輪で初のメダル獲得を目指そうと、本気で強化に務めようと打ちだすも、資金難と直面する状況で、山本の父であり「やまや」創業者の山本秀雄会長は全面的に支援し、日本フェンシング協会会長も務めた。

切っても切れない縁、をいくつもつないできたのが、他ならぬ齊田だった。

法政二高から法政大、フェンシング選手としてエリートコースを歩み、五輪を目指す。現役時代は齊田自身もサーブルの日本代表選手として活躍した。しかし、フルーレ、エペと比べてもサーブルにおける世界の壁は厚く、1964年の東京五輪以後、1992年のバルセロナ五輪まで日本男子サーブル選手は五輪出場が叶わなかった。

そしてそのバルセロナ五輪の出場をかけた選考会で敗れ、齊田自身は現役引退を決めた。

母校の法政大でコーチとして指導に携わるも、活動費はほぼすべてが自費。合宿、遠征と出ていくばかりで収入はゼロ。家族の支援を受け続けるわけにはいかない、と商社の兼松に就職し、仕事とフェンシングの指導に明け暮れてきたが1993年に父が体調を崩し、実父が経営する三洋紙業へ。

いずれにせよ社業とフェンシング、二足の草鞋を履きながら、法政大のみに留まらず、ジュニア代表やユニバーシアード代表の監督、コーチを務めるなど、強化の中枢で辣腕を振るった。

転機は、2002年にポルトガルで開催された世界選手権だった。

 

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