「うぅーん。先生の文字の堂々としていて、バランスが取れているのに見とれてしまっていたの。私なんかその一歩にも近づけないわ」

「慣れよ。数を多くこなしていくと筆使いも自然に慣れてくるのよ。心配ないわよ」

「そうよね。私なんかその書道の一歩どころか半歩にもまだ至っていないものね」

すると、右側の女性が初めて晴美の顔を覗き込んだ。

「そう謙遜しなくても――。でもその謙遜さが大事なのかも。この文字は卒業したと考えること自体、限界が見えてくるのよ。芸術は何でもそうだけど、これでいいと言えるものがないと思う。常に未完成なんじゃないかしら。そうですよね、芳野先生」

初めて右側の女性は晴美に話し掛けてくれた。晴美は嬉しかった。

「そうだよ。あくまでどこまでも未完成な人間が書くことだから、完成品なんてないんだ。それぞれ自分の個性が文字に表われてくると、それでもう充分なんだよ」

「そうなんですか。吉峰先生」

晴美は少し視界が開けてきたように思えた。

「永」の字をもう一度じっくり見て、そして大筆を動かし始めた――。

     

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