家族みんなの顔も頬が緩み、兄はつい「ワァ、ハハハー」と声を上げた。その笑い声はみんなに伝染した。食卓を囲んで井意尾一家は笑いに包まれていった。

デイケアは晴美の思い通りに事が進んでいった。しかし、書道塾はそう簡単にはいかないのだった。

――そうこうしているうちに、八月も中旬にさしかかった。地球温暖化もますます酷くなりつつある。「あぁ暑い、すごい暑さだ」と声が出てしまうほど暑さが身に染み、体中が暑さに包まれているようだ。エアコンが欠かせない。エアコンの温度は25度に設定するとちょうどいい。

書道塾の和室には床の間が正面左にある。そこには『則天去私』という明治の大文豪・夏目漱石が謎のように遺した有名な言葉が前衛的に書かれた掛軸が掲げられている。それは吉峰先生が自ら書いたようだ。落款があった。

そして、その掛軸の下には真っ赤なマツバボタンが真夏を象徴するかのように一輪挿しに躍動している。掛軸の「黒」と一輪挿しの「真っ赤」な色が実に対照的で部屋の中を明るく際立たせていた。

晴美はひらがな五十音はすでに終了している。今日は永字八法の「永」を練習していた。「永」という一字には書道に必要な「止め、払い、跳ね」などの全ての筆使いが込められているのだ。「永」さえ上手く書ければ楷書はほぼマスターできたといえる。

吉峰先生の書いてくれた「永」は、それは見事だった。晴美はその字を見ているだけで胸がいっぱいになってくる。模倣して書くのさえ〈勿体ない〉と思う。じっと眺めていた。

「そんなに難しいの。さっきから凝っと眺めてるけど――」

左側の女性は言った。

今では左側の女性とは少し会話ができるようになっている。