英語の先生のその後

上宮学園にその先生の記録は現在、ほとんど残っていません。上宮中学は戦災には遭わなかったものの、戦後すぐにGHQに校舎を接収され、何年間もGHQの陸軍病院として利用されていたからです。その時に学園の古い書類や記録は捨てられてしまいました。

記録に残っている先生の戦前の記録は、数冊の卒業アルバムと同じく数冊の教務日誌に記載された出張記録くらいで、個人的なことは一切不明です。

私は先生の個人的な資料はもう存在しないものだと諦めていましたが、ある偶然から先生が卒業した大学がわかり、奇跡的にも卒業アルバムを入手することができました。

アルバムには確かに先生の名前がありましたし、写真もありました。先生はアルバムの制作委員もしていたようでした。

私は少しショックでした。いつのまにか、司馬さんが書いた先生のイメージが私にもしみ込んでいたようで、学生時代の先生が大学生活を謳歌する姿を想像したこともなかったからです。

私の先生のイメージは、アルバムを見たことで大きく変わりました。しかし卒業アルバムは見つかったものの、大阪出身だったことがわかったくらいで、上宮中学にいつ就職したのか、新卒で就職したのか、それとも他の仕事から転職してきたのか、その時は何歳だったのか、わからないことだらけなのは変わりませんでした。

司馬さんが卒業した昭和十六年三月発行の卒業アルバムには先生が写った写真があります。また、卒業から九か月後の日米開戦を記念して教職員全員で撮影した「対米英宣戦布告大詔渙発記念写真」でもその顔と名前を確認できます。

しかし、昭和十八年の「菊の佳節に」という上宮・高安中学校の教員合同集合写真にはその姿は見つかりませんでした。

   

【前回の記事を読む【司馬遼太郎】中学英語教師が残した、一生消えない大きな心の傷…? 授業妨害と勘違いされ、激怒されたが謝らず…

 

【イチオシ記事】「歩けるようになるのは難しいでしょうねえ」信号無視で病院に運ばれてきた馬鹿共は、地元の底辺高校時代の同級生だった。 

【注目記事】想い人との結婚は出来ぬと諦めた。しかし婚姻の場に現れた綿帽子で顔を隠したその女性の正体は...!!