4 幻想 〜美結〜

美結は、夕方くらいに、セミダブルのベッドからのっそり起きあがってリビングへ向かい、冷蔵庫にある清涼飲料水を飲む。昨晩の残りがあればつまむ。

後ろを振り返れば、ほとんど使用しない中途半端に清潔なシステムキッチン、それを挟んで部屋全体を見渡せるホームパーティ向けのリビングがあり、巨大なガラス窓が撓(たわ)むことなく天井を支えている。

先に見える建物群はサンドボックス型の名作のごとく緻密に配置されており、じっと見ていると気が遠くなりそうだった。プレイヤーは長い年月を掛けてブロックを敷き詰めてきたのだ。そして、そのうちの一つがこの喜美子宅であり、二人が住んでいるように、他のブロックにも人が住んでいる。どこまでが港区で、どこからが新宿区なのだろう。目視はできない。

美結の頭の中にある「新宿」は、もっともっと狭くて小さいものだった。が、いま、物理的な距離を無視した概念としての「新宿」は、ここにも流れ込んできている。厳然たる境界はない。自分は自由にこの街を泳いでいける、そんな自信が、美結にはあるようでなかった。

十代、大人になる手前は、可能性に満ちていると周りは言う。それは本当なのだろうか。「可能性」の言葉が持つ無責任さよ。人生に満足していない類(たぐい)の人間が唱える皮肉に過ぎないのではないか。と疑う一方で、キリギリスのように、その日暮らしを繰り返していた。昨日と今日、明日は連続していない。あるのは今日だけ。

昼間は、ドラマのワンシーンよろしく優雅な要素で構成されていた。喜美子が帰ってくるまでの間、自分が「新宿」の人間であることを忘れる。何を無理してトー横に赴く必要がある? ここにいれば、生活には困らない。あのドロドロした界隈とは無関係な生活が目の前に存在している。

出会って早々、美結が喜美子の住むマンションを訪れるペースは、一週間に一度から、五日、三日、二日、と短くなっていき、ついには、新宿に「帰る」のが面倒になり泊まるようになった。美結が自由に出入りしても、喜美子は苦にはならなかった。喜美子と顔を合わせない日はほとんどなかった。喜美子の帰りを待っていて、喜美子の顔を見ると安心する。喜美子のボストン型の眼鏡が外され、優しい表情が表れる。ただいま。

おかえり。

短いやり取りで今日も無事生き抜いたと祝福し合う。美結は、喜美子を実の母のように、またあるときは、姉のように慕い始めていた。

      

【前回記事を読む】「もうやだ、死にたい、しんどい」なのに子どもを産む? 自分のしんどさを、子を産んで消化する。どこまで行っても自己都合

次回更新は1月29日(水)、18時の予定です。

 

【イチオシ記事】「歩けるようになるのは難しいでしょうねえ」信号無視で病院に運ばれてきた馬鹿共は、地元の底辺高校時代の同級生だった。 

【注目記事】想い人との結婚は出来ぬと諦めた。しかし婚姻の場に現れた綿帽子で顔を隠したその女性の正体は...!!