悩ましいあれやこれやが片っ端からチャラになろうとしてる気さえした。

ところがまさにその瞬間、グレゴールがおずおずと動く前に体を揺すって、母親からほど近い場所で向かい合わせに這いつくばったその瞬間、茫然自失の体に見えた母親がいきなり立ち上がって、腕を伸ばして指を開いて叫んだ。

「助けて、神さん、助けてー!」

うつむいた姿はグレゴールをもっとよう見ようとしとるようやったけど、それとあべこべに我知らず後ろに走った。背後には食事の用意が整ったテーブルがあんのを忘れとった。

そこに行きついたらすぐさま、放心したみたいにテーブルに座った。自分の横でひっくり返った大きいポットからコーヒーがザアザアじゅうたんへと流れてんのにも気づいとらんようやった。

「お母さん、お母さん」とグレゴールはささやいて母親を見上げた。支配人のことは一瞬頭から消し飛んどった。

それと反対に、コーヒーが流れる光景を目の当たりにして口をパクパクさせずにはおられんかった。それを見て母親はまた悲鳴を上げて、テーブルから逃げて、自分に駆け寄って来た父親の腕に倒れこんだ。

けどグレゴールは両親にかまう暇はなかった。支配人がもう階段の上におったからや。あごは手すりの上、最後にもっぺん振り返った。グレゴールは何としても支配人に追いつくべく助走をつけた。

支配人はひとっ跳びで何段も降りて姿をくらました、ということは何かの予感はあったわけや。

「ひぃー!」とさらに叫んだその声が階段の端から端まで響いた。こうして支配人がトンズラしたせいもあって父親は、それまではなんぼか冷静やったのに悲しいかな完全に血迷うたらしい。