其の参

[一]

再び美しい音色が奏でられることはなかった。たった今まで辺りを染めていた月の光も寒々としたものと化した。何故か身動きが出来なかった。

長いような、それでいて短い時間が過ぎた。気がつくと相手は去っていた。さっきまでその人がいたと思しき場所に小さなウサギの縫ぐるみが落ちていた。それを手にとって眺めていると一つの考えが浮かんできた。

自分は醜いから美しいものに心惹かれるのだろうか、今更のようにそのことに気づかされて肩を落とした。そしてそのまま月光を浴びながら、その場に立ち尽くしていた。

七月下旬ともなると流石に小樽も暑かった。連日太陽が街を炙って息苦しい程だった。それでも梅雨のない分増しなのだが、冷房の苦手な渋谷医師は窓という窓を開け放して診察に当たっていた。

衝立ての傍にはきれいに磨かれた骨格標本が置かれていた。それは件の骸骨が行方を晦ましてから、暫らくして設置されたものだった。

以前には気味悪がった患者たちも、いざ姿を見なくなると、「あれはどうした?」と騒さかった。それで引退した父親が使っていたものをこっそり物置から出してきたのだ。

すると面白いことが起こった。何も説明していないのに、患者らが勝手にクリーニングに出していたと決めつけてしまったのである。

確かに前のものは薄汚れていたし、今目の前にあるのはぴかぴかだ。だがそれを誰もが同一のものだと思いこんだのは意外だった。彼としては新品に代えた理由をどのように説明しようかと考えていたところだったのだ。

一方伊藤医師は謎の休暇から帰ると何喰わぬ顔で勤務についた。渋谷整形外科病院は繁盛していた。二人の医師は各々の診察室で忙しく働いており、勤務中はあまり顔を合わす機会はなかった。