「オンドルは暖かくて何よりなのですが、家具が傷みます。それで我が国の家具は皆脚がついているのです。千殿は日本の有名な茶人と伺いましたので、今日は特別な茶を用意しました。宝林寺の緑苔銭茶です。穀雨(二十四節気の一つ、四月二〇日頃)前に摘んだ『雨前茶』で造られた珍しい物です。餅菓子はタダム(茶啖)といいます」
「まるで海苔の様な深い緑色でございますな。それに何とも香ばしい、格別な香りが致します」
「お気に召して頂き何よりです。熊川(ウンチョン)にお行きになりたいとの事、あちらで造る焼物は陶器で、両班の使うような磁器ではありませんぞ」
「ありがとうございます。庶民の器もまた一興かと存じますので」
「御存じであればそれで結構です。昌原の都護府にも連絡しておきます。自由に動いていただいて結構です。但し五日間の期限だけはお守りください」
「ご配慮感謝申し上げます」
釜山から西へ島伝いに五里(二〇キロメートル)程進むと、左側に加徳島が見える。そのまま進むと、船は自然と右側の入り江に誘われる。齊浦(乃而浦)である。
二四年前まではここにも倭館が置かれ、釜山より遥かに多い二五〇〇人の日本人が暮らしていたという。この頃この地域は、「熊川県」と呼ばれ日本では熊川港として知られている。二三年後、秀吉の朝鮮出兵の際建てられた「熊川倭城」の遺跡が現在も残されている。中世からの陶器の産地である。
宗易と茂勝は船から降りると、予め手配していた受職人(朝鮮から官位を貰っている日本人)の案内で、五日間隈なく歩き、窯元を訪ね歩いたのである。頭洞里(トドンリ)という地域を中心に、六〜七連房の半地上式登窯があちこちにあった。
この時期まだ日本に、連房式登窯は導入されていない。秀吉の朝鮮出兵以後の事である。その際、この地域の陶工も技術も根こそぎ日本に連行され、朝鮮の陶芸は一時期たえてしまう。そしてそれらの陶工たちにより日本の「萩焼」「高取焼」「薩摩焼」などが始まる。「焼物戦争」と呼ばれる所以である。