昭和三十三年には、自宅に水道は引かれていないため、手押しポンプの共同井戸で洗濯、炊事の支度を飲食店街に居住する人達がしていた。共同井戸は、自宅の隣にあった。
その井戸は、居住する人達の溜まり場であり、地域の社交場といった場所でもある。そんな場所で、居住する人達の熾烈な争いがあった。
居酒屋トラヤの親父は、大東亜戦争での南太平洋の戦地帰りで、男気があって意思の強い男であった。一方割烹料理を営む店主は、気が弱いことを隠そうとして強がりを言うが、涙脆いところがある。この二人の男がいざこざから共同井戸で、口論を始めた。
「ゲンさんとトラヤの店主が言い争いしているぞ!」
「ゲンさんが凄い剣幕で怒鳴っているぞ!」と物見高い野次馬が集まり出した。
割烹料理屋の店主は「トラヤ、チキショー、覚えていろ!」と言って、自分の店に戻ると包丁を持って、店から出てきた。
「ゲンさんが店から包丁を持ち出した」と近所の住民が騒ぎ出した。
共同井戸の周りには、いつのまにか、近くの住民が集まってきた。私は、怖い物見たさに母親の足もとから覗き見をしていた。
母親は、「コウちゃん、お母さんの傍を離れたら駄目だよ」と言って私の体を押さえた。
ことの経緯はわからないが、二人の大人が共同井戸の手押しポンプを挟んで睨み合っている。
割烹料理の店主が厳つい顔で声を震わせながら「オイ、トラヤ、いい加減にしろよ、この包丁で貴様を刺し殺さないと気が収まらない!」
包丁を持った手は震えていた。
トラヤの店主は、手に手拭いを巻いて身構えた。
「殺るなら殺って見ろ。俺は、戦地で銃弾をかいくぐった男だ。そんな包丁ごときチャチな武器で驚かない」と凄い形相で割烹料理屋の店主を睨み返した。