眠れる森の復讐鬼
午後九時に消灯なんて夜型の海智にはとてもじゃないが早すぎる。早寝早起きが健康に良いという理屈だろうが、午前六時に起きても九時間眠る計算になる。最近では最適な睡眠時間は人それぞれだと言われているのだから、睡眠時間を強制するなど医学的に遅れているのではないか。
或いは単に電気代が勿体ないだけなのかもしれない。ただでさえ初めての入院で緊張しているのに、慣れない固めのベッドと枕ですぐ寝付けなんて無理難題だと彼は思った。
そこで彼は寝たふりして布団に潜り込み、スマホでゲームを始めた。つい夢中になってしまって、このまま徹夜してしまうのではないかと思ったが、さすがに入院初日の疲れが出ていつの間にか眠り込んでしまっていた。ドアの向こうの騒々しさで彼は目を覚ました。
時計を見ると、午前二時二十分だった。遠くでアラーム音が鳴り響いているのが聞こえる。人がバタバタと慌ただしく廊下を走り、救急カートのキャスターがゴロゴロと鈍い回転音を響かせながら走り去るのが聞こえた。
「何してるんだ、早くしろ!」
男の怒号が病棟に響き渡り、海智の病室の中まで聞こえる。女が謝っている様子だが、詳しく聞き取れない。
おそらく入院患者の誰かが急変したのだろう。当直医と看護師が慌てて救急処置をしている光景が海智の目に浮かんだ。入院初日からこんなことで睡眠を妨げられるとは本当に幸先が悪いと彼は寝返りを打って再び眠りにつこうとしたが、ふと今夜の夜勤が一夏だったのを思い出した。
さっき医師に怒鳴られたのは彼女かもしれない。普段は叩いても簡単には死なないと思われるような強気な女だが、昔、無断で部活を休んだ後に顧問からひどく叱られたことがあり、かなりしょげてしまってしばらく立ち直れないような繊細なところがあった。海智も何度か相談に乗ってやっと気を取り直した始末だった。
勿論だからといってこの状況で素人の彼に出る幕などないのだが、今まさに彼女が死に瀕した患者を眼前にして冷汗を流しながら必死に働いていると思うと、旧知の仲としてはそう易々と安眠できるものではない。とはいえ深夜の暗い病室に一人で座っていても仕方がない。迷惑は承知の上で禍患を覗いてやろうという気になった。
そっとドアを開けて暗い廊下に出た。海智の病室は四一八号室で四階病棟の南東の端にある。部屋の前を南北に走る廊下は短く、部屋から西に向かう廊下は長い。西へ向かう廊下のすぐ左手にはエレベーターが二台並んでおり、そのすぐ先に階段への出入口がある。
廊下の突き当りには四〇六号室が見えるが、そのすぐ右手前にはナースステーションの明かりが見える。病棟はL字型をしており、突き当り左手の方向にも廊下が続き、梨杏が眠っている四〇二号室を含め、四〇五号室まで四室がその奥にある。耳をすませるとどうやら急変は左奥の病室で起こっているようである。
海智は人目を気にしながらおそるおそる暗い廊下を歩いて行った。近付いてみるとナースステーションからも物音がする。まずいと思って体を強張らせるとすぐ目の前を一夏が何かの医療器具を持って飛び出し、慌ただしく左奥の廊下へ走っていた。彼には一切気付かなかったようである。