「よっしゃ、という気持ち以上に、ホッとしました。これでやっと、日本代表全体を強化できる。またここからや、と気が引き締まりました」
有言実行、とばかりに北京からロンドンへ。日本フェンシングの強化体制は大きな変化を遂げた。
2012年のロンドン五輪。準決勝では世界ランク7位の日本に対し、3位のドイツを相手に34対30と日本が4点をリードした状況でアンカーの太田がピストに立つも、相手エースの猛攻に屈し、残り10秒を切った時点で38対40。
絶体絶命とも言うべき状況に追い込まれたが、ここから太田が反撃、残り1秒で再逆転の末、1本勝負を制し41対40で勝利した日本は、決勝で敗れはしたものの男子フルーレが団体戦では初の銀メダルを獲得した。
日本の強化に携わっただけでなく、張西が長年築き上げ、残した功績は他にもある。国際フェンシング連盟のSEMI委員として、北京、ロンドン、東京と三度の五輪や世界選手権、アジア大会など、数多くの国際大会に派遣されたことだ。
前述した通り、遡ること20年、2000年に国際フェンシング協会理事・委員会選挙に立候補。審判、法律、医事、広報、規則、SEMI、倫理と7部門からなる委員会の1つであるSEMI部門において、当時日本フェンシング協会も国際委員長を務めていた張西が選出された。
きっかけは、強化の長として数多くの大会に参加する中、突き付けられた「世界」と渡り合うための課題だと感じたからだ。
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