反論の余地はなかった。自分たちが異国へと招き「強くしてくれ」と言った以上、彼についていくのが本筋だ。選手は必ず自分が動かす、と約束し、どうすべきかをオレグに仰ぐ。まずは日本チームとしてのまとまりをつくる、個々の技術を上げるために、とオレグの要望に張西が提案したのは「500日合宿」だった。

強化のためには必要な取り組みではあったが、十分な資金はない。だが張西の「勝つなら今しかないし、ここで勝てなかったら終わりや」という思いに賛同した、2003年に就任した山本秀雄・元日本フェンシング協会会長が資金面でバックアップしてくれたのも大きかった。

日本フェンシング協会はこれからも強化に必要な資金を集め、環境を整える。だから君たちも本気になってくれ。1人1人にそう説いて回ると、「もう私、アルバイトをしなくていいんですね」と泣き出した選手もいた。

時間もお金もかけ、強化に努めた結果は戦績にもつながり、2004年のワールドカップで太田が、2005年には女子フルーレで菅原が優勝するなどこれまでは勝てなかった世界で1つずつ勝つ喜びを知る。

強化対象をフルーレに定めたことで、他種目からは不満の声も上がったが、北京五輪で結果を残すことができなければ、次には続かない。

「時差のない北京ででけへんかったら、もう絶対にメダルは獲れないと思いました。フルーレ以外の選手、関係者には申し訳ないけど我慢してくれ、と。今はフルーレにしか集中できない。でもここでメダルを獲ったら、必ず環境は変わるし、そうしたら絶対に還元するから、と説得する。とにかくここを逃がしたらもうダメや、と僕も必死でした」

そして2008年8月13日。待ち望んだ瞬間が訪れた。男子フルーレ個人戦で太田が銀メダルを獲得。張西が「一番のヤマだと思っていた」という、太田がそれまで苦手としていたチェ・ビョンチョルに2回戦で勝利し、そこから波に乗ると一気に勝ち上がり、決勝ではベンヤミン・クライブリンクに敗れたものの、史上初の銀メダルがようやくもたらされた。