第2章 戦時中から戦後の生活
1 女学校時代
学徒動員
それから暫くして森の宮の陸軍造兵廠に移った。
ここは兵器を造る広大な規模の軍需工場で、私たちの他にも沢山の学徒が動員されて来ていた。みんな現場のいろんな部門に配属され、私は数人の級友と共に事務所に回されて、給料係の手伝いをすることになった。
昭和二十年三月十三日の夜、大阪は大空襲を受け、市内の大半は焦土と化した。
私の家は、すぐ近くまで炎が迫ったが幸いにも焼け残った。家がびっしり建て込んでいるこの辺りは防空壕を掘る場所もなく、父が家の床下に塹壕(ざんごう)のような穴を掘った。空襲警報が発令されるたびに家族みんながその中に入って息を潜め、一刻も早くB29爆撃機が立ち去ることを祈った。
ずっと後になって、あの床下の防空壕は、ひとつ間違えば焼け崩れる家の下敷きとなって、家族全員の墓穴になったかも、と思った時、背筋が寒くなるのを覚えた。
空襲で大火災が起こった後は、必ず黒い雨が降った。
空襲が激しくなり、焦土と化した大阪の市内は交通機関が途絶え、動員先の大阪陸軍造兵廠には、家から片道二時間ばかりの長い長い道程(みちのり)を歩かねばならなかった。
ある日、帰宅途中で突然空襲警報のサイレンが鳴り渡った。
私はとっさに近くに見えた地下鉄の駅にかけ込んだ。階段を下りた辺りは人の顔の見分けもつかない程暗く、他に避難している人もかなりあったようだ。
私のすぐ近くに私と同じくらいの女子学生がいた。互いに一人で心細かった私たちは、いつの間にか親しい友達のように手をつなぎ合ったまま、黙って恐怖の長い時間を耐えた。
漸く警報が解除になって外へ出ると辺りはすっかり夜。地上に出た人々はいつか散り散りになり、幸い帰る方向が同じだった私たちはたった二人、暗く、広い国道の真ん中をしっかりと手をつないで歩いた。
国道の両側は見渡す限りの焼け野ケ原と化していた。焼け跡特有のキナ臭いにおいが鼻をつき、不意に闇の中でボーッと上がる残りの火の手が不気味に赤く、焼けただれた建物の残骸や、宙に浮いた、熱で曲がりくねった水道管などが化け物のようなシルエットを描いていた。
二人とも無言で必死に歩き続けた。
焼け跡の暗闇から誰かが飛び出して来そうな予感がして尚更恐ろしかった。 国道の大きな交差点まで来て私たちは別れることになった。
「さよなら」「さよなら」名前を聞く気持ちのゆとりすらなかった彼女との一期一会であった。