第2章 戦時中から戦後の生活

1 女学校時代

こうして私は、無事女学校に入学することができた。制服、かばん、教科書などを買い揃え、いよいよ女学生になる日を待つまでの間、私は机の前に座り、国語の教科書を開いては声を出して読んだ。

第一章は「日出づる国」だった。内容はよく覚えていないのに何度も何度も読んで題だけが頭に残っている。

女学校には小学校にはなかった講堂があって、雨天体操場まであった。運動場は狭かったけれど、校舎は鉄筋コンクリート造りで地下室もあった(私の通っていた小学校は新設校だったが、戦時中であった為か全校舎が木造だった)。

校舎の壁の一部にはツタがからまって、四季ごとにその装いを変えた。雨天体操場の上にある講堂へ行く通路が、スロープになっていたのも私には珍しかった。

運動場の片隅に吊り下げられた鐘を、用務員のおじさんが打ち鳴らして、授業の始まりと終わりを知らせた。しかし、まともに勉強ができたのは一年生の間だけだった。

従兄の出征

昭和十六年十二月八日、大東亜戦争(太平洋戦争)が始まった。伯父のたった一人の跡取り息子に、召集令状が来て出征して行ったのは、私が女学校二年の冬のことだった。

それは大和(やまと)平野一面、真っ白に雪が積もった寒い日だった。父と一緒に見送りにかけつけた私に、伯母は「あの子が履いていく靴やから、美しゅう磨いてや」そう言って、古い革靴を出してきた。

ちょっとやそっとではきれいにならない古い靴に、私は何度も靴クリームをつけては丁寧に磨き上げた。

「えろう美しゅうなった」と伯母は喜んでくれ、従兄は、

「こんなにきれいに磨いてくれて、ありがとう」と、改まったように礼を言った。

そして、その靴を履き、鎮守の森のお社の前で、村の人々の歓呼の声に送られ、従兄は生まれ育ったふるさとを後にしたのだった。

田も畑も農道も、白一色に雪化粧した中を、まだはたちのうら若い彼は、両親に守られるようにして駅へ向かった。『必ず、無事で戻ってこいよ』と伯父、伯母はどんなに願ったことだろう。

しかし、従兄は、二度と再びふるさとの土を踏むことは無かったのだった。わずか二十年の短い人生であった。

「戦病死」という公報が入ったのは、終戦前だったか後だったか、私は、はっきり覚えていない。一縷の望みをかけて伯母は、「同じ部隊に同姓の人が居たらしいので、その人の間違いではないか」と言いながら役場をまわったという。

「お国のため」とはいえ、たった一人の跡取り息子をなくした伯父や伯母たちは、どんなにか諦め切れなかったことであろう。