第1章 幼い日の思い出
1 誕生から幼稚園のころまで
母乳が飲めなかった赤ん坊
昭和の初期、世の中は不況のあらしが吹きまくっていた。失業地獄は深刻で、農村では娘の身売りは珍しいことではなかった。そうした昭和五年六月二日、父今村秀勝、母ふみえの次女として、私は家からさほど遠くない産院でこの世に誕生した。この時、父は三十二歳、母は二十五歳だった。
父は大和平野の「山の辺の道」に程近い農家の次男坊として生まれた。十七歳の時に父親(私にとっては祖父)を亡くし、やがて二つ年上の兄が家督を相続した時に、大阪の大きな呉服屋へ奉公に出た。そして大正十五年、二十八歳の時に、母と見合い結婚をすることになる。
母は、父の生家とは数キロメートルしか離れていない、やはり農家の次女として生まれた。母は、自分が生まれるのと引き換えに実母を亡くし、祖母と継母に育てられた。
私の父と母はそれぞれに親類縁者から遠く離れ、大阪で世帯を持ったのだ。昭和のはじめ、大阪の黒門市場に呉服の店を出していた父は、不景気のあおりをくらって店をたたむ羽目に陥った。そして大阪は西成区桜通りに住居を移すことになる。
それからの父は店を持たず、得意先への外交で商いをするようになった。店をたたんで暫くして私が母の胎内に宿ったころ、姉の多美子はよちよち歩きを始めていた。そんなある日、叔母(父の妹)が訪ねてきた時に、あぶなっかしい足どりで歩く多美子を見て
「この子、歩き方がちょっとおかしいのとちがう?診てもろうた方がいいのやないかしら」
と母に言った。
早速病院で診察を受けた結果、股関節が脱臼しているとのことで、まだいたいけな幼子はその場で腰にガッチリと重いギブスを巻かれてしまった。
「畳の上を、重いギブスを引きずるようにして移動する幼い子を見て、ふびんでならなんだ。殊に汗をかく季節はギブスを巻いたところにアセモが出来て、それがかゆいと泣く子にどうしてやることもできずに、一緒に泣きとうなったもんや」
と、母は後々述懐していた。
今は、乳児の股関節脱臼はバンドで矯正出来るようになったらしいが、当時は子も親も随分とつらい思いをしていたのだ。店をたたんで気持ちが落ちこんでいたところ、多美子の股関節脱臼、それに加えて私を妊娠中の体で、母の神経は相当にまいっていたようだ。
私が生まれた時、母の母乳は一滴も出なかった。身近に貰い乳を頼める人もいなくて、父と母は、私をおもゆと滋養とうで育てた。滋養とうというのはどんなものかよくわからないけれど、牛乳屋さんが毎日配達してくれたらしい。
栄養の足りない乳児期の私は、
「やせて手足が細く、おなかばかりが大きくふくれた赤ん坊やった」
と、いつのころか銭湯へ一緒に行った時、父が言っていたことを覚えている。毎晩のように夜泣きをする私を抱いて、父は寝静まった夜の町を
「ねんねんよー、ねんねんよ」
と、あやして歩いた。
粉ミルクのなかった時代、どんなにか大変な育児だったことだろうか。私が二歳になった時、弟の信幸が生まれた。彼は母乳をたっぷりと飲んで丸々と育った。