【前回記事を読む】家族みんなの顔が揃った食事時、職を失った父が口を開いた「おまえ...」

第2章 戦時中から戦後の生活

3 大八車の旅

自転車泥棒

騒ぎに両親も目を覚まし、二人とも突っ立ったまま呆然と玄関を見下ろしている。「気がつけへんかったんか」怒気を含んだ父の声に、私は「うん……」と言うより外はなかった。

姉が戻ってくるまでの僅かな間に、ガラス障子一枚隔てたすぐ側で盗難が起こっていようなど、夢にも思わぬことであった。姉たちが出かけて行ったあと、泥棒は音もさせずに玄関の重いガラス戸を開け、まるで忍者のように自転車を盗み出したのだ。

宿題に気をとられていた上に雨の音も手伝ったのか、全く何も気付かなかった迂闊(うかつ)な私だった。

「おとうちゃん、交番へ届けよう」私はわらにもすがる思いで言った。「行ったかてあかん」父には届け出をする気持ちなど毛頭ない。明日にはどこかのヤミ市で売られていることだろう。

自転車を取り返したい一心だった私には、そこまで考えが及ばなかった。「届ければ巡査が泥棒を探して捕まえてくれる」そう思った私は、「ウチ行ってくる」と雨の中を、ちびた下駄を履いて一人で傘をさして交番へ急いだ。

辺りは暗く人っ子ひとり通らない。心細さも忘れて「自転車が見つかりますように」そればかりを念じていた。やがて家から百メートルばかりの所にある交番の赤い灯が見え、両手を後ろで組んだ巡査が交番の入り口に立っているのが見えた。

その時分の巡査はまだ腰にサーベルをつけ(ていたように思う)、子供にとっては怖い存在だった。その怖い巡査の前におずおずと立つと、私は事の顛末(てんまつ)を話し出した。巡査は、私の頭の天辺から足の先までじろりと眺めまわし、聞いているのかいないのか終始黙っていた。

私が話し終えると暫く間(ま)をおいて、「戸主の名前」と聞き、続いて「家はどこや」と言った。私は一生懸命答えたが、彼は立ったまま格別何かに書き留める風もなく、「見つかったら知らせてやる」と言ったきり中へ入ってしまった。

一つおじぎをして、私はがっかりした重い気持ちで家に引き返した。雨にぬれた素足が冷たく、ちびた下駄がひどくみじめだった。