第1章 幼い日の思い出

1 誕生から幼稚園のころまで

幼稚園のころ

五歳の春、家から五分余り歩いた所にある今山幼稚園に通うようになった。

毎朝、幼稚園の制服代わりのエプロンをつけ、制帽をかぶり、お揃いのカバンを肩から斜めにかけてワイワイ、ガヤガヤにぎやかに一年間、幼稚園に通った。

幼稚園は桃組、あやめ組、菊組、ゆり組とあって桃組は二年保育の年少組、あやめ組はその年長組、菊組とゆり組は一年保育の組だった。私は菊組だった。

先生は全員が女の先生で、どの先生もいつも着物の上に(はかま)を着け、髪は束ねて後ろで丸くまとめていた。

お昼のお弁当の時間になると、「さあさあお昼になりました/これから皆さんご一緒に 楽しいご飯をいただいて/またまた遊びましょ/うれしいな ああうれし」こんな歌をみんな思いっきり声を張り上げて歌い、そのあと「いただきます」と言って食事が始まる。

「残さずに、みんな食べましょう」と言いながら、先生は机の間をゆっくりと巡回する。

いつだったか、ご飯は食べ終わったのにおかずのタラコが残ってしまったことがあった。

「どうしよう、残したら先生に𠮟られる」

私はしくしく泣き出した。

「どうしたの」と尋ねる先生に「タラコだけでは辛くて食べられない」と私が言うと「いいよ。残してもいいよ」と先生は言って下さった。ホーッと安心して弁当箱を片付けたことを覚えている。

お弁当のおかずでは甘い金時豆が大好きだった。朝早くから(りん)を鳴らして、天びん棒で前と後ろに大きな長い箱型の荷を担いだおじさんが、煮豆や佃煮などを売りに来る。表の戸があいて母が「煮豆屋さん」と呼ぶ声を二階の寝床の中で聞いた時は「今日のおかずは金時豆が入ってる」と思って、うれしくてひとりでにんまりしたものだ。

古い古いアルバムに、私の幼稚園の遠足の時の集合写真がある。遠足は必ず保護者同伴だった。写真の母親たちの服装は、みんな着物で洋服の人はひとりもいない。父親も着物に中折れ帽といういでたちだ。昭和の初めごろ、殊に女の人の服装は着物が普通だった。

そのころ父は、盆踊りを見に連れて行ってくれたり、人ごみの中を歩く時などよく肩車をしてくれた。肩車のことをチチクマ(・・・・)といって、私は父のチチクマ(・・・・)が大好きだった。父の広い肩にまたがって、私は自分の体の安定を保つ為に、両手を父のひたいに当てているつもりが、「目をふさいだら前が見えん。わしのオデコを持て」とよく言われた。両目をふさがれて戸惑っている父の姿を思い浮かべると思わず吹き出しそうになる。

こうして普段は優しい父も「学校へ上がるまでに、鉛筆と箸を持つのだけは右手で出来るように」と、家族の中でただ一人左利きの私に、厳しいしつけをした。

家族揃って丸い食卓を囲んでの食事時、父の目を盗んで持ち易い左手で箸を使っていると、じっと私の手許を見つめている父の怖い目に出会う。そっと右手に箸を持ち替えて、ぎこちない手つきで御飯を口に運んだ幼い日。

あのころは、決して声を荒らげることのない父の、ぐっとにらむ目がとても怖かった。おかげで私は大抵のことは右左、どちらの手も使えるようになったが、刃物だけは今もって右手を使えないままでいる。