戦後、働き手をなくした「田舎」から、時折「誰かを手伝いによこしてほしい」と、父あてに葉書が来るようになった。そんな時は、姉と、私と、二つ下の弟のうち、誰かが手伝いに行った。

伯母に従いて、田舎の家から遠く離れた畑で、えんどう豆の収穫を手伝った時のことだ。畑では、私の背丈が隠れるくらいに成長したえんどうが、沢山の豆をつけ、竹の支柱に支えられて、幾つもの畝に整然と並んでいた。

私は無心になって豆をとっていて、ふと気がつくと、辺りは時間が止まってしまったかのように静まりかえり、伯母のいる気配もない。見通しの利かない畑に、たった一人取り残されて、私は心細く不安になった。

大きな声で、「おばちゃん!」と叫ぶと、なぜか思わぬ遠くの方角で返事がした。

その声を聞いて、私はほっと安堵し、作業を続けることができたのだった。暫くして戻ってきた伯母の目が、赤く充血しているのを私は見た。

農作業を手伝う私に、伯母は帰らぬ息子の姿を重ねていたのだろうか。伯母の胸のうちを思い、私は言葉を失くしてしまった。

学徒動員

二年生の二学期から学徒動員で天神の広崎化学工場へ通うようになった。スカートの代わりにモンペをはき、布で作った袋を肩から斜めにかけ、反対の肩からは防空頭巾を斜めにかけた。

警報が出ればいつでもかぶって素早く避難できるいでたちだった。工場では畳一枚分くらいの大きな和紙を、乾板の上で何枚も重ねて貼(は)り合わせる作業をした。

この部厚い和紙で風船爆弾を作って飛ばし、それが気流に乗って太平洋を渡りアメリカ本土を爆撃するという。

「ほんとにアメリカに着くのやろか」とみんなでささやいたが、「お国の為」と私たちはただ黙々と働いた。

昼食は工場で支給され、学童疎開をして誰もいない荒れ果てた隣接の小学校で食べた。あちらこちらの窓ガラスが破れ、冬の季節はまるで吹きさらしのように冷たく寒い教室で、ガチガチ震えながら食事をした。

「正座すると少しは温(ぬく)いかもよ」と誰かが言った。私も硬い木の椅子に足の痛いのを我慢して正座してみた。「足を下ろしているよりは少しましかな」と思った。唯一とれる暖は、浅い弁当箱のふたに注(つ)がれる熱いお茶だけだった。

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