【前回記事を読む】必死に逃げた道を戻ると、そこは徹底的に破壊され、焼き尽くされ、沢山の人が死んでいた。爆弾でえぐられた跡がいくつも…
第2章 戦時中から戦後の生活
3 大八車の旅
「気をつけてなあ」と田舎の人たちに見送られて、父と当時十五歳だった私と、私より二つ年下の弟の三人で、朝早く大和盆地にある父の生家を発った。
戦時中疎開してあった家財道具を大八車に積んで、我が家まで運んで帰るのである。あれは終戦の明くる年の春だったと思う。空襲の脅威からは解放されたが、世の中は深刻な食糧難の時を迎えていた。
山のように積み上げた家財道具を、荷崩れしないようにしっかりとロープで縛って、父が梶棒を握り私と弟が後押しをした。はるか西に連なる生駒山脈を越え、大阪までの道程は生半可なものではない。けれども苦しいとも、つらいとも思った記憶は無い。
まずあの恐ろしい空襲がない。B29は来ないのだ。それに伯母の心尽くしの弁当が荷物と一緒に積んである。それは混ざりものの無い、真っ白な米だけの、大きな握り飯だった。
「道をよく覚えておけよ」と前で梶棒を引きながら父が後ろの私たちに声をかける。大八車を田舎へ返しに行くのは私たち子供の役目だった。私と弟は並んで後押ししながら通り抜ける村の名をしっかりと覚えこんだ。
太陽が頭の上まで来た頃、「昼飯にするか」といって、父は大八車を山肌の方に寄せ、腰の手ぬぐいで汗をふきながら少し小高くなった所へ登った。私たちも、それが一番楽しみの弁当を抱えて後に続く。
大八車を止めた道路に沿って汽車の線路が延び、そのすぐ向こうを大和川の流れが開けて見えた。竹の皮の包みをあけると、大きな白い握り飯がまぶしく光って並んでいる。中に梅干しが入っているだけのそれは、その時代、親子三人で囲む何よりぜいたくな食事だった。
「あんな所にセリがある」