突然姉が言い出した。川向こうに汽車の小さな無人駅が見える。
「えっ」
私と弟は顔を見合わせた。向こうへ渡るには近くに見える吊橋しかない。壊れそうな古い吊橋は、いかにも頼りなげに川の両岸をつないでいた。しかも川幅は大分ある。
「ちゃんとした橋のある所まで行こう」という私たちの制止を聞かず、姉はその吊橋を渡り始めたのだ。ゆらりゆらりと揺れるその橋を手に汗握る思いで見つめ落ちはしないかと、私と弟は息を詰めて見守った。
どうにかこうにか無事、向こうへ渡りきったのを見届けると、私たちは田舎の家を目指して車を引いた。弁当を盗まれたショックも、姉がいなくなった心細さも、一刻も早く田舎の家に着こう、という思いで振り払った。
途中、道を間違えては行きつ、戻りつしながら、陽が西に傾きかけた頃、広い野面の彼方に父の生家が見えて来た時は、張りつめた気持ちがどっと緩み、弟の顔にも安堵の色が広がっていった。
今にして思えば大八車ごと盗まれなかったのが、まだしも幸いということだ。そして後日、姉があの吊橋を渡ったことを知った母は、「大胆な子や」と震える声で言ったのを思い出す。つらい時代の思い出が、家族の絆の中で懐かしいものに風化されている。
大八車の旅は、再現しようとして出来得ない「私の大切な思い出の旅」となった。
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