造兵廠壊滅
忘れもしない終戦前日の昭和二十年八月十四日、造兵廠がB29の集中爆撃を受けた。
その日は廠本部で動員学徒隊の結団式があって、式が終わり隊列を組んで持ち場へ戻る途中で、突然空襲警報のサイレンが鳴り渡った。
正午に近いころである。
駆け足で帰り、警報が出るといつも入る頑丈な造りの防空壕まで来た時、「ここは兵隊さんが入るからあかんねんて! 私らは造兵廠の外へ逃げるんやて!」と誰かが叫んだ。
「えーっ」
すでにB29の爆音が聞こえる。
私たちは他の学校の学徒たちに混じって、森の宮の門に向かって必死に走った。門を出てすぐ側の城東線(今の環状線)のガード下をくぐってふと振り返った時、上空から大きな爆弾の落ちてくるのがはっきりと見えた。
もう無我夢中で目についた道端の防空壕に転がり込んだ。と同時に壕が激しく上下に揺さぶられ、両手で頭を抱え込んだ私の顔に、下から吹き上げた土が容赦なく叩きつけられた。
揺れが収まるとすぐさま壕の入り口を見た。
外からの光が見える。生き埋めにならなかった──。
B29の爆音が聞こえなくなるのを確かめてから壕を飛び出し、またもや必死に走った。造兵廠が爆撃の目標らしい。そう思うと一刻も早く廠から遠ざかりたかった。
気がついてみると、いつの間にか、たった一人になっていた。
次の梯(てい)団の爆音が聞こえるとまた近くの壕に飛び込んだ。何度か壕の梯子(はしご)をするうち、やっと空襲警報が警戒警報になった時は、玉造辺りまで逃げ延びていた。
そこでばったりと二、三人の級友に出会った。「無事やったんね」と互いに声をかけ合った。その中の級友の一人が「これあんたのお弁当」と言って、私に弁当の包みを渡してくれた。
造兵廠から出る昼食は、当時はとても貴重なものだった。市民の口には滅多に入らない米ばかりのご飯とたっぷりのお菜だった。
この日私は弁当を取りに行く間がなかったが、結団式に出なかった彼女が、あの爆撃の中を他人の弁当まで持って逃げてくれていた。思いもしなかったことだった。
「ありがとう……」私は見渡す限り焼け野原の道端に腰を下ろして、その弁当を涙ぐみながら食べたことを今でも忘れはしない。
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