第1章 くしろ子ども未来塾

くしろ子ども未来塾設立に至る経緯

病弱の母は床に就くことも多く、小学校に行く頃には女の子は家事の手伝いをすることが我が家の決まりになっていました。夕食後も後片付けや両親の寝床の用意があったので、自分の部屋に行けるのは8時頃になるのが常でした。それから初めて自分のことができるのですから、習い事など夢のまた夢でした。

ただ家の裏に貸家を持っていて、そこに越してきた日本舞踊の花柳(はなやぎ)寿登芳(じゅとよし)師匠のお稽古を、毎日窓の外から眺めていました。すると、それに気付いた師匠が、私を中に入れて着物を着せてくれ、お稽古に参加させてくださったのです。

華美なことを嫌う父はそれを知って大反対でしたが、師匠が父に許しを乞うてくださり、月謝も取らずにずっと指導してくださいました。

子どもの頃の私は何も知らず、ただお稽古が楽しくて学校から帰るとすぐにお稽古場に走って行ったものです。私を可愛がっていることで師匠が他の父母から抗議を受け、私の存在が師匠を苦しい立場に追い込んでしまったことを知ったのは、それからずいぶん日が経ってからのことでした。

思春期に入っていた私は、これ以上ご迷惑はかけられないと踊りから離れましたが、社会人になってからやはり踊りを続けたいと再び門下生として通い始め、名取にもなり、今では子ども未来塾でも教えています。師匠は私の芸の母であり恩人です。この師匠の愛と芸から多くを学び、無償の奉仕の尊さを学んだのです。

そうして私は子どもの親になりました。子育てをしていく過程で子どもの世界を垣間見て感じたことが、私の心に何かを呼び起こしたのでしょうか。

我が子がどのように友達と関わっているのか、上手に遊べているのかを知りたくて、よく家にお友達を呼び、遊びに来てもらいました。

ある日、夕方になりお迎えに来たお母さんとお子さんの会話を聞いていた時のことです。何かを習いたいとその子が言うと、親が一言で「うちはそんな余裕がないから駄目!」と却下。言われて悲しそうな顔をしているその子の顔―何かをしたい、やってみたいという子どもの願いを親の都合で簡単につぶしてしまうのです。

勿体ないとしみじみ思いました。子どもがどう成長していくのかはとても楽しみなことなのに、その芽を摘んでしまうのです。