母親は静かに微笑みかけていた。遠いような、それでいてすぐ側にいるようなぼんやりとした笑顔だった。骸骨がちょっとイタズラをすると、母親は「まあ」といってやさしく叱る。辺りに向けると、乗り合わせた人々が皆微笑みかけている。幸福だった。
車輪の音が遠くで鳴り、このままずっと旅をするのだと思っていた。どこへ行くのかは知らなかったが、母親と一緒だから安心だった。ふと何か辺りが翳ったような気がした。気がつくと乗客はもう笑顔ではなくなった。白々と哀れむような、何かを咎めるような目差しになっていた。気味が悪そうに身を引く中年の女もいた。
どうしたのだろう、急にどうしたというのだろう。骸骨は首を擡げてみた。すると目に映る自分の姿は子供の骸骨だった。ぎょっとして拡げた手は白々とした白骨だった。そしてハッとした途端目が覚めた。
電車はゴトゴト走っていた。風がそよそよと頬をなぶっていた。斜め向かいに母子連れの客が座っていた。三歳くらいの男の子が母親にじゃれついていた。母子はくすくす笑い合ったり、わざとらしくにらみ合ったりしていた。骸骨は淋し気に微笑んだ。
遠く近く平野が広がって、辺り一面緑の穂に溢れていた。安曇野だった。向こうの窓からは北アルプスの山々が見えるはずだが、こちら側は低く尖った山肌が見えるばかりだ。
暫くすると行く手に街が現われた。大町だった。一月余り暮らした街、正太と一緒に働いた街だ。駅を抜けるとすぐ二人の暮らした家があるはずなのだが、沿線の家並みに囲まれてそれを見透かすことは出来なかった。骸骨は何故かほっと胸を撫で下ろした。
一方その様子を先程から抜け目なく探っている男がいた。言うまでもなく伊藤医師だった。彼は列車の連結部に立ち、広げた新聞越しに様子を窺っていた。接触する気など端からなかった。そんなことをすれば相手は逃げ出すに決まっていた。休暇の残りはあと一日半、その間にどこへ腰を落ち着かせるのか見定めるつもりでいたのである。
何も知らない骸骨を乗せて列車はゴトゴトと北へ向かった。大町を過ぎると野面は狭くなった。やがて湖の脇を抜けると速度が落ち、山越えが始まった。谷が深くなり、山肌が見る見るうちに迫ってきた。
そんな風景を眺めながら、漠然と海へ行こうかと考えていた。糸魚川まで行って、一番早い電車に乗ればいいのだ。東へ行くか西へ向かうか、いずれも同じことだった。そして静かな漁村で降りて、暫く海を眺めて暮らそうと思ったのである。
【前回の記事を読む】自らの姿は隠しながら、その一方で、相手には心を開いて欲しいと望んでいた。そのムシの好さに彼自身はまだ気づいていなかった。
次回更新は12月13日(金)、11時の予定です。
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