9B
弥生末(すゑ)つ方の頃ほひ、暖けき風の香(かう)にほひぬるをり、をんな車にて歩(あり)きき。
木暗(こぐら)きこずゑども茂れるに、枝ひろびろと荒れ渡れる辺(わた)りなれど、花どものうるはしう清らに咲き乱れ、いみじうをかしげに見え渡りて、あなに、こは桜花にはべめり、と打ち見遣れば、まずいと心地好(よ)げにかぜにふかれしほどに、
◆木暗かる 辺(わた)り照るまで 咲き乱る 何やさぶらふ 桜と知るは
【現代語訳】
三月の終わり頃、温かい風の香りが広がるのに誘われまして、女房車で歩き回りました。
木の枝先がこんもりと薄暗く茂っていて、枝が広々と荒れ続いている所でしたけれど、花々が色鮮やかに華やかで美しく咲き乱れていました。たいそう趣良く見え続いていましたので、あら、
まぁ、これは桜花のようですね、としきりに見ますと、本当にとても気持ち好く風に吹かれる間に(詠んだのは)、
◆木立が茂り、ほんのり暗い辺りまで照るほどに咲き乱れているのは、何かと思いましたら、桜花と知ったのですねぇ。
【参考】
◆桜と知るは~「は」は詠嘆と感動の終助詞。
10B
あな、こや置き去りの一つ葉なり。まして、内の一つ花ばかりぞ散らであらなむと覚ゆるに、さてこそ、袖の涙川(がは)見ゆるままに、涙目抑(おさ)へつつ夜もすがら明かしつ。
◆花散らす 風来たるとて わが雪消(ゆきげ) 徒名(あだな)つれなし 袖の柵(しがらみ)
【現代語訳】
あらまあ、これこそは置き去りにされた一枚葉なのです。葉一枚でもそうなのに、言うまでもなく、心の花一輪だけは散らないでほしいと心で願うのに、このように涙が袖に川のように流れるのを見るに任せています。涙溢れる目頭を押さえ押さえしては、一晩中明け方までそのまま朝を迎えたのです。
◆「花を散らす風が吹いて来たから大変」と言って、私の春心の雪解けは、心ない濡れ衣の噂のために思いのままにならないのです。それで、袖で涙を抑えているのです。
【参考】
◆雪消=雪解~春が訪れての雪解け、雪解け水。良い意味で使う。ここでは、心ない濡れ衣の噂が無く、一人悲しく取り残されずに、春心がいっぱいになる事。
◆徒名つれなし~徒名は第二義である、根拠のない噂や濡れ衣の事。形容詞「つれなし」は、自分の思いのままにならない、情けないという気持ち。
◆袖の柵~涙の流れを抑える袖を、涙の川の流れをせき止める柵に見立てた言葉。歌意としては、「本来なら、春の雪解け水が心の中に流れているはずだけれど、春の心の葉や花を散らす濡れ衣の噂風が吹いて来た。思い掛けずも、春の雪解けの川ではなく、涙の川が流れる事になり、流れる涙を今は袖で抑えている」という気持ち。
◆風=徒名、葉と花=自分。「徒名」は濡れ衣なので、「袖の柵」の意味上の縁語となっている。
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